障害者の、そして健常者の「自立」とは?

 この文章の目的は、障害者の自立を実現する事が、我々健常者にとってどういう意味をもつのか、ということを考える事にあります。というのは、自立」ということに対して無自覚な人が多いのではないかと考えるからです。いわゆる社会的に規定された「自立」、そして実現する会で語られる典型的な障害者の「自立」、そうした「自立」というあり方を無自覚に受け入れてしまっている人が多いのではないか、と不安を感じたのです。

「自立した個人」

 社会には社会の既成の価値観があり、実現する会にも、既に出来あがった価値観があります。それをちゃんと消化しないまま、無自覚に受け入れることは、大変危険だし、僕に言わせればそれは「自立した個人」とは言えないと思うのです。

社会にはびこる不合理

 最近、社会ではあきれ返るような不祥事が続いています。警察は事件の捜査を怠り、2人の尊い命を見捨て、少女を9年間も監禁させる結果を招きました。裏では身内の交通違反を帳消しにする始末です。JCOではバケツで放射性物質を注ぐという信じられない業務実態が世界的な大事故を引き起こしました。

 これらに共通するのは、遵守すべきマニュアルさえも守られていなかったことです。どうして守られていなかったのでしょう?それは、マニュアルの背景を考えず無自覚にマニュアルを受け入れていたため、マニュアルの軽視につながっていたからです。マスコミはここぞとばかりに騒ぎ立て、市民の怒りは限界に来ているように思えます。

 しかし僕は、ちょっと待ってくれ、と言いたいのです。今の社会で、彼らを非難する資格のある人はどれほどいるのでしょうか?ほとんどの人は、不祥事を起こした人同様、無自覚に「世の中」を受け入れているのではないでしょうか?

 例えば、横断歩道を渡ろうとしている時、車はなかなか止まってくれません。マニュアルからすれば、車は絶対止まらなければいけません。しかし、ほとんどのドライバーはそれが守れません。マニュアルを守るのが面倒だからです。なぜそのマニュアルがあるか、はどこかに飛んでしまっています。警察等の不祥事と根っこは同じです。そしてその結果、毎年何千人もの方が亡くなっています。それなのに、横断歩道では、車が通らなくなるまで歩行者が待つ事が当然の光景になっています。

 このように社会では、非常に不合理なことが当然の事としてまかり通っていることがよくあります。障害者問題も、そうした問題のひとつだと思います。僕は横断歩道で止まらないドライバーに警察の不祥事等を非難する資格は全くないと思っています。障害者問題に無関心な人も同様です。僕は幸い、横断歩道と障害者問題の2点は自覚できていると思っていますが、他の問題で不合理に対して無自覚な事があるかもしれません。ですから、なるべくマニュアルや目上の人の言うことを鵜呑みにせず、その背景を自覚しようと努めているつもりです。

「自立」を「自覚」する?

 僕は、みなさんにも、横断歩道で止まれるドライバーになって欲しいし、障害者問題を自覚してほしいと思っています。世の中の不合理を無自覚に受け入れる大人にはなって欲しくないのです。もちろん、不合理を受け入れざるを得ない時はいくらでもありますが、自覚して受け入れて欲しいのです。例えば、横断歩道を渡るとき、車が止まってくれなければ渡ることが出来ません。つまり、不合理を受け入れざるを得ないのです。しかし、その不合理を不合理として受け入れれば、「よし、僕が運転するときは必ず横断歩道で止まろう」という考えに行きつくと思うのです。

 かなり脱線しましたが、「自立」ということに対しても自覚的であって欲しいのです。矛盾していますが、無自覚に「自立」とはこういうことだ、と受け入れている大人が多すぎます。そうした大人が先程のような事件を引き起こしているように僕には思えます。

 つまり、僕にとって、「自立する」とは、「自覚する」とほぼ同じ意味です。例えば、「自立」とは「依存しないこと」ではなく、「依存していることを自覚すること」だというように。

 障害者の自立生活を実現する会では、「特定の人物に介助を依存せずに、本人の主体的な判断で生活設計していける状態」を「障害者の自立生活」としていると思います。一般論としては僕もそう思います。しかし、障害者が親と同居していたとしても、それが本人の主体的な判断であり(親も同意していて)、かつメリット・デメリットを十分自覚しているならば、それはそれで自立と言えると思うのです。

 では「障害者の自立生活を実現する」とはどういう事でしょうか。私は、本質的には「障害者問題を自覚する」ことだと思っています。会を「障害者問題を自覚する会」と言いなおしても良いくらいです。その理由は2点あります。

 自覚することが障害者問題を解決する第一歩になる、というのが1点です。

 2点目は、「障害者問題」という目の前の不合理を自覚することが、健常者自身の自立にもつながるからです。横断歩道に歩行者がいても止まらないドライバーは、自立した人間とは言えません。障害者問題に気づかない人も同じです。こうしたことを自覚することが自立への第一歩だと思うのです。

 つまり「障害者の自立生活を実現する」とは、「障害者問題の解決を図る」と同時に、「健常者の自立を実現」することだ、というのが私の主張です。

 

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