実現する会と私

私と実現する会との関わりの歴史を人間関係を軸に紐解いてみました。1995年の文章です(まだ学生)。しばしお付き合い下されば幸いです。

それまでの私

1988年4月、私は筑波大学自然学類に入学しました。当時の心境を一言で表すのは非常に困難です。それを説明するには、かなり昔から出発せねばなりません。ですが、私という人間を理解していただく助けにもなる事ですから、それまでの私をすこし説明させていただくとします。

私は小中学校とまともに学校に出席していません。数々の非行を繰り返し、出会う教師全てがサジを投げました。中3の時、地元の公立高校を受験しましたが見事に落ちました。要するに私は、箸にも棒にも掛からない奴として世間からつまはじきにされ、また私自身もつまはじきにされる事にどこか居心地の良さを感じる、そんな子供だったのです。

私はクリスチャンの叔母の勧めで、1年遅れで新潟の敬和学園高等学校に入学しました。私は全くその高校によって救われたのです。その高校は私のように普通の高校に入学させてもらえない子供にも配慮する不思議な所で、「受験勉強なんかするな」と教師が平気でいうのです。ですが、私はそれまでの自分を否定する様に猛烈に勉強しました。私の偏差値は驚異的で、私はそれまでの私をすっかり忘れエリートになったつもりでした。

結局、私は筑波大学にしか合格できませんでした。かなり挑戦的な書き方ですが、当時の率直な感想です。どん底で形成された私の劣等感を補償するには、もっと上のランクが必要だったのでしょう。しかし、3年間私を支えてくれた恩師や親友達は素直に祝福してくれました。ぽっかり空いた穴を彼らの祝福で埋めた私はなんとも言えない心境で入学したのです。

長岡君との出会い

入学して驚いたのは、坊ちゃん嬢ちゃんの多い事でした。それはそうです。みんなそれまで優等生だったわけですから。身の回りに肌の合う友人はまったくいませんでした。私はそれまでの経験から、世間からつまはじきににされている人達に無条件に共感を持っていたので、筑波大にある障害者との交流サークル「たいようの会」にはいりました。このサークルは、もともと親どっぷりになっている障害者を少しでも親から自立させる為に発足したのですが、私が入ったときには、すでに、2週間に1日親の代わりに障害者の面倒を見るサークルに変質していました。ともかく、そこで私は、ほか、河西さん、西やん、大坪君、京祐、など大切な友人と出会います。

長岡と出会ったのも、そのサークルのたけちゃんに紹介されたのがきっかけでした。長岡はみなさんも良く知ってのとおり、「実現する会」が発足するきっかけを作った筋ジスの人です。当時彼はまだ療養所にいて、実家に帰る時に連絡をくれました。澄んだ目と清らかな心を持った、おとなしい、しかし、内に秘めた奴でした。私とは音楽の趣味が良く合い、意気投合してキング・クリムゾンやビートルズ、Tレックスについて語り合ったものです。ぬるま湯に浸かった学生の「オフコースっていいよね」、「TMN聞いてる?」などの訳知り顔な会話のなかで発狂しそうになっていた私にとって、長岡との出会いは本当に救われた様な気がしました。(オフコースが好きな人ごめんなさい。でも、僕や長岡のように深い裂傷を負った人にはあんな表面的な音楽では慰みにならないのです。)

ショーン(小磯)との出会い。

私が大学2年に上がった春、「たいようの会」新歓お楽しみ会に、場違いな新入生がやってきました。白い「えなめる」の靴を履き、態度も服装と同様に悪い男は「くるんじゃなかったぜ」といいたげに煙草をくゆらし隅に陣取っていました。

その男は不思議とそれからも会合に顔を出し我々を困惑させましたが、そう時を置かずして彼の内面も我々の知る所となりました。他人の評価にびくつき不安いっぱいな彼。そのナイーブな内面をひょうひょうとした態度とバランスの悪い服でくるむ事で、彼は彼なりに世の中に足を踏み出そうとしていたのです。彼は私の気に入る所となり、やがて私の部屋に遊びにくるようになりました。これが私と小磯との出会いのあらましです。その頃の楽しい思い出は、枚挙に暇が無い程ですが、やはり一番は「童貞友の会」結成事件でしょう。

その頃私にはほのかに憧れていた女性がおり、彼女の気を引こうと必死になっていました。そして彼女の誕生日にDJテープを送る事にしたのです。(これは私の得意技)私は、当時仲の良かったベンや小磯(当時ショーンと呼ばれていました、ちなみに私はロリ)、京祐らと共に破茶目茶なテープを作り彼女に送りました。今でも覚えています。そのテープの終わりにメッセージを録音したのですが、ショーンは「今度お尻触らせてください」と大ボケをかましておりました。その位破茶目茶だったのです。私は彼女に全く相手にされませんでした。ベンも同じように破茶目茶なテープを片思いの人に送り、振られました。京祐も、ほぼ同じ頃美人に振られて「死にたい、死にたい」としつこく同情を集めていました。ショーンは振られこそしないものの、片思いの女性には別に好きな男性がいる事がわかり、我々と同じ土俵にいたも同然でした。

ここに機は熟しました。我々同志は決起し「童貞友の会」なるものを結成、互いの傷をなめあうことにしたのです。しかし、その後京祐がいち早く脱会、数年後ベンも脱会し、会員は私とショ−ンだけの状態がしばらく続きました。その私も3年程前にとうとう脱会し、今となってはこの「童貞友の会」はこの世に存在しません。なぜなら、ショーンも去年脱会したからです。

私はこの愛すべき後輩達に長岡を紹介しました。これは「実現する会」と私の関わりの中で唯一自慢できる事です。しかし、ショーンと私の蜜月時代は、そう長くは続きませんでした。ショーンもまた肌の合う友人が身の回りにいなかったのでしょう。当時の彼はあまりに私にべったりでした。さすがに私も嫌気が差し、つまらぬ事で彼をいじめるようになったのです。そしてある時、知人の女性達が見守る中、私は彼と彼の思っている女性との関係について、散々に彼を罵倒したのです。彼は逃げるように帰っていきました。その夜、私が寝静まった頃を見計らって、彼は私の部屋の外から、「ナガタのバカヤロー」と叫びました。当時私が彼から聞いた唯一の自己主張でした。その後、しばらく私とショーンは疎遠になりました。

愛の前には無力

大学3年になり、私はある女性と付き合い始めました。それまで、まねごとは何回かあったものの、ちゃんと付き合うのはこれが始めてでした。そんなゆとりは、それまでの私にはなかったのです。押さえていたものが、一気に噴き出してきました。半年後、あっさり振られた私は、みっともない程狼狽しました。私はそれまで、普通の人が経験出来ないような地獄をたくさん見てきました。しかし、生きる事に絶望したのはこれが初めてです。いかなる経験も、愛の前には無力である事を知りました。そして、それからの私は、生きる屍のように、ひっそりと暮らしました。

風の噂に、長岡が自立するらしい、と聞きましたが、それどころではありませんでした。たまに彼に呼び出されて会合に出ても、「ショーンに任すと、共産主義運動に利用されるぞ」なんてイヤミをいう始末でした。

そんな私をかろうじて支えてくれたのは、ほかや河西さんたちでした。特に、河西さんが大坪君と同居するようになってからは、彼らの家は、私やほか、京祐、西やんの溜まり場と化していました。不思議とそれから、河西さんも西やんも、長年付き合った彼女と別れていったのです。

肉塊となった長岡

1992年春、私は筑波大学大学院に入学しました。当然、向学心に燃えていたのではなく、就職したくなかったからです。ちょうどその頃、長岡の自立生活もショーンと同居という形でスタートしました。まだ私は生きる屍状態でしたが、それでも、新しい風の予感がしていました。研究室に行くつもりでアパートを出ても、長岡とショーンの所に向かってしまう事がままありました。そこは活気にあふれていたのです。矢野、近藤、西村、金森さん、小林ら、新入生はまぶしいほど輝いていましたし、ショーンは見違えるほど、そしてうらやましいほど大人になっていました。そこには、彼と同学年のベンやうーけ、神らも来ていましたが、ショーンと違い昔とたいして変わっていなかったので余計そう思えました。私と彼はすっかり仲直りしたのでした。

私は彼らに触発されてようやく重い腰をあげつつありました。映画を撮ろうという話が、長岡との間で出たのもこの頃です。私はほかと足しげく通い、自立について長岡と良く議論しました。そして、次第に私は失望を感じるようになりました。結局長岡は、肝心なところで人任せでした。あからさまに彼に指摘しても手応えが感じられなかった私は、通うのをやめたのです。その頃の彼の日記には、こう書いてありました。「ロリさんとほかさんに鍛えられる毎日だ。」今となっては、もう遅いのですが、やり直せたらと思います。

私はいつしか元の生きる屍に戻っていました。「ああ、やっぱりだめだ。」そう思い始めた頃、長岡が死にました。病院に行くと、肉塊となった長岡がベッドに横たわっていました。私は、死にたいと思っていた自分を、その肉塊と一緒に葬ったのです。

俺はMさんのヒモになるんだ。

長岡の死後、私は彼との約束だった映画作りに着手し、ショーンは障害者の自立生活を実現する会 を始めました。映画には様々な人達が協力してくれました。河西さんをはじめとする大学時代からのむさいメンバーはもちろんのこと、矢野、近藤、西村、金森さん、小林、柴崎さんら新しいメンバーは私にエネルギーを与えてくれ、私はすっかりこの人達が好きになりました。

矢野は今でこそある種の落ち着きが出てきたものの、当時は地に足がつかない状態で、肌の合う奴がいないんだろうなあ、と思わせました。映画では狂言回しの役で、散々な事をしてもらいました。

西村にはカメラを回してもらいました。当時彼はまだ酒に慣れてなくて、酔っては卑猥な事をわめく始末で困りました。それもちゃっかり撮影してあります。

金森さんは、私の部屋の「未来少年コナン」と書いたビデオテープにHビデオが入っている事を知り、「信じていたのに・・・」という名言を吐いてくれました。この前、久しぶりに金森さんに会ったとき、「今度未来少年コナン見ようよ」と冗談を言ったところ、「いいですよ」といたずらっぽく切りかえされ、すっかりうれしくなってしましました。

小林は今でこそ私に鍛えられて大人になりましたが、当時は本当に女子高生でした。

女子高生といえば、河西さんは、撮影にきた柴崎さんに、「この前まで女子高生だったんですね」と血走った目で見つめ、彼女を困惑させていました。

ショーンは伸ばしていた髪を撮影の為私に切られ、少々後悔気味でしたが、「きゃー、小磯さんさわやかー!」と女の子に大好評で、これ以来約1ヶ月絶好調になります。得に我々を驚かせたのは「Mさん事件」です。Mさんというのは、私の後輩の同級生で、つくばに遊びに来たときにショーンにひとめぼれしたのでした。私は今でもなぜ彼女がショーンに惚れたのか、納得がいきません。なぜなら、ショーンは彼女に「Mさんは、SMでいうとSですか、それともMの方ですか?」としつこく尋ね、「そんなこと聞くと女の子に嫌われますよ」といわれる始末だったからです。当時彼は得意げに「俺はMさんのヒモになるんだ」と語り、我々を苛つかせました。

実現する会と私

実現する会が発足してしばらくして、ショーンに疲労の色が濃くなりました。長岡の事がやはり効いていたのです。「福島に帰りたい」と漏らすようになりました。折本さんなどは心配して、彼がつくばから出て行かないよう私に説得を頼んだりしました。当時私は映画作りに熱中して月日を過ごし、実現する会からは疎遠になっていましたが、ショーンの事は少し気がかりでした。しかし、私に出来る事はなかったのです。彼には、暖かく包み込んでくれる女性が何より必要でした。

映画は1994年2月、気の狂うような作業の末に完成しました。欠点だらけですが、大好きな作品です。そして、それからしばらくして、好きな人がいるとの報告をショーンから受けました。「ああ、またか」というのが最初の感想でした。でも、どうやらうまくいっているらしいのです。「あの女は俺に惚れてるな」なんてことを言う始末で、「その人のどこがいいの?」と聞くと、即座に「大人なんだよねー」という答えが、ため息と共に返ってきました。その時は、直子さんがあんなに素晴らしい女性だとは思ってもみなかったので、「ふーん」としか答えられませんでしたが。あれよあれよという間に、彼らは結婚し、人も羨む幸福を享受しています。

今年になって、私はかねてからの望みがかない、上横場の住宅で大坪君と同居生活を始めました。その家を生活ホームにしたい、というのが大坪君のお母さんの希望でした。佐藤さんのことも絡み始めた事情もあり、私は実現する会のミーティングに出始めました。そして、私は実現する会の事を大変誤解していた事を知りました。どこかに「ショーンのサークル」というイメージ、つまり頭でっかちな理屈が幅を利かせた青臭い印象があったのですが、実際は全然違ってました。久しぶりに会った矢野君たちはすっかり大人になり、頼もしい限りです。出席していくうちに、私はすっかり実現する会の虜になりました。そして、それまで距離を置いていた事を後悔したのです。

さて、以上つらつらと実現する会と私の関係を人間関係を軸に述べてきました。こうして、これまでの歩みを整理してみますと、うまく言えませんが、なにか不思議な糸のようなものの存在を、私は感じる事が出来るのです。そして、その糸のようなものを意識し、それに助けられながらこれまで生きてきました。それが皆さんに伝わったなら、その糸のようなものも本望でしょう。お付き合い下さって、ありがとうございました。

 

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