ロッカー永田とTONE(前編)
〜サウンド・スクエア全盛時代〜
ロッカー永田
僕は中学の時、隣の席に座っていたオカルト岡本にラジカセを自慢して以来、彼と一緒にオーディオにのめり込み、一緒に
音楽もマイクで録音・・・
僕は、特に「録音」する事にエネルギーをかけてきました。その大元は、小学校時代の松下のカセットレコーダーに突き当たります。生まれてはじめて、自分の声を録音した時の、あの不思議な感動・・・。僕は当時、登校拒否少年だったので、学校を休んでは、カセットレコーダー片手にいろんな音や声を録音し、番組風にしたてて楽しむようになりました。家族の寝起きを襲ったり、友達と「宇宙戦艦ヤマト」ごっこをしたり、家出して夜の街の様子をドキュメントしたり・・・。当然音楽にも興味が深まり、ドボルザークやベートーベンからビートルズまで、その陳腐なカセットレコーダーで楽しんでいました。音は今聞くと最悪ですが、当時は満足していました。ただ、不満はありました。録音といても、カセットレコーダーの内蔵マイクをラジオのスピーカーに近づけて録音するという原始的な方法だったので、家族の声や犬の鳴き声が音楽に混じって録音されてしまうのです。その度に僕は激怒していました。
「ラジカセ」すらなかった・・・
そういう訳で、中学に上がった頃から、しきりと親に「ラジカセが欲しい」とねだっていました。しかし、僕の両親は極端に物を買わない方針を貫いており、内心あきらめてもいました。しかし、強力な味方が現れたのです。その人は学校の生徒指導の先生。僕が学校を休んでぼーーっとしていると、その先生が突然現れ、「永田君、いいものを持って来たよ」と
いろいろ検討した末、僕が選んだのは日立の「パディスコ・
徳平ええおもわんか?
僕は、このラジカセが大好きになり、だれかに自慢したくて仕方がありませんでした。そして、久しぶりに学校に行く事にしたのです(先生の目論見は大成功)。その時、僕の机の隣に座っていたのが、オカルト岡本です。それまで、僕と彼とはほとんど話をしたことがありませんでした。しかし、僕のラジカセの話に異様に興味を示し、僕の家に遊びに来る事になったのです。聞けば、彼のラジカセも日立製という事で、まさに意気投合という感じだったのです。
存在自体がオカルトな岡本
それから中学卒業までの
というように、両親がラジカセを買ってくれた事で、僕の活動の自由度は飛躍的に高まり、また友達の輪も広がっていきました。そして、何台もラジカセを持ちより、仲間でワイワイ試していくうちに工夫が生まれていきました。週末になると、誘い合って電気屋を巡り、憧れのマシンから珍品まで見て回りました。夜は皆僕の家に泊り、「オールナイト・ニッポン」などを聞きながら、女の子やラジカセの話で盛り上がり、飽きると夜の街に繰り出してはイケナイ事をしたりしたものです。オカルト岡本が「徳平ええおもわんかー?」と好きな女子の名前をつぶやいた瞬間を偶然録音したのもこの頃です。女の子に
ラジカセ1台では物足りなくなって・・・
いまだ学校には行ったり行かなかったり状態でしたが、この頃になると、僕の両親も、こうした活動の大切さを分かってくれるようになり、必要性を説明し納得してもらえれば援助してくれるようになりました。そして中学
どこへ行くにもマイクと一緒
合チンに負けた・・・
音質のいい録音が出来るようになると、自然と番組作りもさらに凝るようになり、僕達はいつのまにか、かなり高度な編集もこなすようになっていました。すると、
「カミナリお年玉」誕生!
僕達はその冬、満を持して大作ラジオ・ドラマに挑戦しようと話し合っていました。第
中学時代の最高傑作!
つらいながらも楽しい思い出が詰まった中学生活も終わりに近づいていました。さすがにクラスの雰囲気にも緊張感が感じられるようになり、受験が終わるまで活動も中止せざるを得ませんでしたが、欲求不満はつのる一方で、終わったら中学生活の総決算をやろうと密かに計画したりしていました。
公立高校の合格発表の日は雨でした。僕は同じ学校を受けた仲間と、発表を見に行きましたが、そこに、僕の名前はありませんでした。点数は十分取れていたはずでしたが、内申書が響いた様です。仕方なく、僕は今治明徳高等学校に行く事に決め、悔しいながらも心に整理をつけました。
若いというのは素晴らしい事で、僕は大きな挫折を味わったにも関わらず、頭の中はすでに卒業記念企画の事でいっぱいでした。僕が録音してきた中学校の行事やクラスの様々な出来事を散りばめながら、
中学時代を総括しますと、編集の中心はラジカセであり、出来る事も限られていました。しかし、その制約が工夫を生み、逆に自由度が低かったからこそ、自由で優れた作品が生まれたと言えるでしょう。そして、新しいマシンが導入される度に、少しずつ表現の幅が広がっていったのです。
(その後、
強引に買ってもらったコンポ
高校に入り、私は一人遠い今治まで汽車で通うことになりました。がんばって、僕を落とした高校を見返してやろう、と意気込んでもいました。私は母親と、志望校に合格したら家にコンポを買ってもらうという約束していました。もちろん不合格でしたから、買ってもらえないはずでしたが、得点が合格ラインよりかなり上にだった事がはっきりした(その高校に勤めている先生がそっと教えてくれた)ので、買ってもらえる事になりました。名目上は「家のもの」でしたが、そんなものに興味を示しているのは僕だけなので、事実上僕の物になりました(笑)。僕はカタログやオーディオ誌(サウンド・レコパル、stereo等)を参考にして、最低価格ラインの中から機種を選びました。少し長くなりますが、その思い出を書きたいと思います。
最も大切なレコード・プレーヤーにはデンオンのDP−37F(¥
次に大切なのはチューナー。当時最も一般的な音楽仕入れ口だったからです。レンタル・レコードもあるにはありましたが、種類も少なく高かったのです。みんなお目当てのアーティストの曲を録音する為、FMをかじりつくように聞いていました。今のFM番組はドライブやBGM用にイージーに作られていますが、当時はそんな僕達がリスナーの中心でしたから、趣向を凝らした名番組が沢山ありました。FMリスナーの為の雑誌も、「FMレコパル」、「週刊FM」、などなど
アンプはヤマハの¥
スピーカーはダイヤトーンの
とまあ、なんだかんだ言っても、これまでの選択は実に妥当なものです。僕と同年代で当時コンポを組んだ人は、ほとんどの人がこの選択をしているはずです。一方、怒られたのがカセットデッキです。僕が選んだのは、あのソニーのウォークマン・プロフェッショナルだったのです。型名
精密すぎて寿命も短かったWMD6C
そして、高校中退・・・
長々と購入機器について述べたのは、このシステムを組んだ事で、当時のアナログレベルの作品を制作するのに必要な機器がほぼそろったからです。おかげで、作品の音質は放送局並みになり、マシン性能の制約によりあきらめていた企画も出来るようになりました。やる事があり過ぎて、困るくらいでした。この頃の僕の毎日の楽しかったこと!っと言いたいのですが、そうはうまく行きませんでした。それは
今治明徳高校は、かなりの底辺校でした。私は、偏差値が低いとかには、もうこだわっていませんでしたが、皆が死んだ魚のような目をしていたのには耐えられませんでした。親に無理矢理通わされているツッパリ達が幅をきかせ、みな自分に関係なければいい、とこそこそ過ごしていました。僕は、「まあやれるだけやってみよう」、とは思っていましたが、無理でした。友人も出来ましたが、その友人が因縁をつけられてツッパリグループから苛められるようになり、僕が間に入った事で僕にも矛先が向けられはじめました。僕は担任にも相談してみましたが、なしのつぶてでした。結局袋叩きにされた僕は、
そんな中、楽しみはやはり、週末に集まってくれるオカルト岡本達でした。僕達は、それぞれ違う高校に進んだにも関わらず、週末になるとスタジオと化していた僕の部屋に集まり、いろいろ実験したり、企画を練ったりしました。私は退学してサバサバした気持ちにはなっていましたが、毎日独りぼっちだったので、彼らの存在は本当に救いになったのです。
送信アンテナは自作した
すべてを忘れた夏休み!
夏休みに入り、僕達は、初の本格的定期放送への準備に入りました。ロンリー近藤の提案により団体名を「TONE」とし、ハード、ソフト両面の充実が図られました。オカルト岡本、ロンリー近藤らとバイトに精を出し、オーディオ・ミキサーも購入しました。僕の家の屋根にはオカルト岡本設計による放送アンテナが建ち、かなりのエリアに電波が届くようにもなりました。徹夜してオカルト岡本とジングルを作ったのもこの頃。2人ともテンションが高く、魔法のようにアイデアが湧いてきた事を覚えています。そして、この夏、一つの伝説が生まれました。「FM
きつかった12時間大マラソン放送
AIWA
上がAIWAの名機AD-FF70。3ヘッド、ドルビーB/C/HXPRO、バイアス自動調整機能、等現在でも必須とされる機能がすべて搭載されたマシン。
下は中学卒業時に購入したデッキ(RS−B60 テクニクス)。2ヘッドながら、ノイズ・リダクションとしてDOLBY B/Cのほかにdbxまで搭載しているにも関わらず、¥49800という価格であった。
そのお金とは、父方の祖母から高校入学祝いとして頂いた入学祝(
ただ、この製品には壊れやすいという欠点がありました。3ヶ月後には様子がおかしくなり、修理に出しましたがもっと壊れて帰ってきました。出しては壊れて帰ってくる、というのを6回も!続けた挙げ句、ようやく新品と交換という形で返ってきました。交換してからは、かなり持ちましたが、私は修理担当の感覚を疑います。明らかに壊れているのに、「動作チェックもした」と言い張るのです。「カセットが回らない」、という故障でしたから、電源を入れて
コミュニケーション・ジョッキー、スタート!
さて、すこし気持ちが入ってしまいましたが、なんの話かというと、そうそう
9
10
その週の土曜日、カキカキ森を除いた全メンバーが、いつものように僕の部屋に集まりました。予定の時刻になってもカキカキ森が来ないのを確認し、「ざまアみろ!」とみんな口々に叫び自由を満喫しました。「独裁政治は終わった!」と局長のオカルト岡本も叫んでいましたっけ。
サウンド・スクエア誕生!!
僕達は、
カキカキ森がいなくなった後、
僕は「タケシのアイヨック・ワナナッキー」というふざけた番組を作っていました。人気コーナー「タケちゃんがイクー!」は、エロ本自動販売機特集や、新聞配達人ドッキリなどの企画で仲間には好評でしたが、かなり独り善がりなところがありました。しかし、なんといっても評判だったのはジングルでしょう。多重録音による一人コーラス?もどきの「アイヨックワナナッキー!!」は馬鹿受けでした。また、僕は番組の終わりに、「今日の放送時間は○分×秒でした」、といつもしゃべっていましたが、年末スペシャルの時、「
オカルト岡本は「岡本聖二の
ロンリー近藤は「ロンリー近藤のええじゃないか」で、
ベジタブル合田と通路をふさぐ阿部は
そのうち、オカルト岡本もトランスミッター内蔵のダブルラジカセ「サテライト」を購入し第
僕達の生活の中で、毎週土曜日の放送は、当時唯一と言ってもいい自己表現の手段として欠かせないものになっていました。そして、この活動がいつまでも続くと信じて疑いませんでした。そんな時、降って沸いたのが「新潟に敬和学園高等学校というのがあるが受験してみないか?」という親の勧めでした。「僕は予備校で大検をとって大学を受ける」と当時はうそぶいていましたが、全然勉強しませんでしたし、当時の予備校は大検クラスなんてありません。毎日夕方近くまで寝ている僕を、両親が心配しないはずはありません。見かねたクリスチャンの叔母が両親に薦めたのが敬和でした。そこはキリスト教精神に基づく人格教育に力を入れている高校で、普通の高校には入学させてもらえない僕のような生徒にも配慮をしてくれるところだったのです。そのパンフレットを読んだ時、僕の心は動きました。中退した明徳高校とは正反対の充実した学校生活がありそうです。僕は受験を決意し、すがる思いで新潟に旅立ちました。テストは簡単でしたが、面接が難関でした。寮面接(合格しても入寮が許可されないと入学できない)では「寮は君が考えているほど甘くはない」といわれる始末で、僕は愛媛に落ち込んで帰りました。帰宅した直後、オカルト岡本が「お前がおらんかった時の放送じゃ」といってテープを持ってきました。これでも聞いて気を紛らわせよう、と聞き始めたところ、とんでもない内容をオカルト岡本がしゃべっていました。「今永田君は新潟まで受験に行っています。落ちろ落ちろ!」非常に刺のある言い方でした。彼は創価学会員だったので気に入らなかったようです。僕は激怒し、憂さ晴らしに彼の秘密を友人にばらした後、彼と絶交しました。
たった6ヶ月の放送期間でしたが、この6ヶ月がどれほど素晴らしかった事か!本当に楽しかった・・・。何より、駄目な僕達が、毎週しっかり集まって、話し合い、よりいいものを目指して取り組んだ事が、その後の僕達の人生でどれだけ自信になったことでしょう。当然、放送記録はすべて「永久保存」されています。僕は今でも、何か自分を見失ったり、自信がなくなったりした時は、当時のテープを聞くのです。そうすると、なんとも言えない甘酸っぱい気持ちになり、心が満たされ、悩んでいる事がすごく小さい事に思えてくるのです。こうして、
もう、この頃には戻れない・・・
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