ロッカー永田とTONE(前編)

〜サウンド・スクエア全盛時代〜

ロッカー永田

 

僕は中学の時、隣の席に座っていたオカルト岡本にラジカセを自慢して以来、彼と一緒にオーディオにのめり込み、一緒にTONEの活動を行ってきました。オーディオとTONEの関係は切っても切り離せないものです。ここでは、その点を中心に、TONEの活動について振り返っていきたいと思います。

 

音楽もマイクで録音・・・

僕は、特に「録音」する事にエネルギーをかけてきました。その大元は、小学校時代の松下のカセットレコーダーに突き当たります。生まれてはじめて、自分の声を録音した時の、あの不思議な感動・・・。僕は当時、登校拒否少年だったので、学校を休んでは、カセットレコーダー片手にいろんな音や声を録音し、番組風にしたてて楽しむようになりました。家族の寝起きを襲ったり、友達と「宇宙戦艦ヤマト」ごっこをしたり、家出して夜の街の様子をドキュメントしたり・・・。当然音楽にも興味が深まり、ドボルザークやベートーベンからビートルズまで、その陳腐なカセットレコーダーで楽しんでいました。音は今聞くと最悪ですが、当時は満足していました。ただ、不満はありました。録音といても、カセットレコーダーの内蔵マイクをラジオのスピーカーに近づけて録音するという原始的な方法だったので、家族の声や犬の鳴き声が音楽に混じって録音されてしまうのです。その度に僕は激怒していました。

 

「ラジカセ」すらなかった・・・

そういう訳で、中学に上がった頃から、しきりと親に「ラジカセが欲しい」とねだっていました。しかし、僕の両親は極端に物を買わない方針を貫いており、内心あきらめてもいました。しかし、強力な味方が現れたのです。その人は学校の生徒指導の先生。僕が学校を休んでぼーーっとしていると、その先生が突然現れ、「永田君、いいものを持って来たよ」と2cm程の厚さにもなるラジカセのカタログを置いていったのです。たぶん両親から小耳に挟んだのでしょう。僕はむさぼるように、そのカタログを読みました。そこには、各社自慢の機種が登場し、機能を競っていました。「ダブルカセットでダビングも簡単!」、「マイクミキシング機能で、DJもカラオケも思いのまま!」、「セパレート・スピーカーでコンポ気分に!」、「レコード・プレーヤー内蔵!」、「軽量、薄型でハイキング、キャンプにも!」、ああ、僕はもう夢の境地でした・・・。本当に今思い出してみても、当時のラジカセには夢があったのです。

いろいろ検討した末、僕が選んだのは日立の「パディスコ・W1」という機種でした。特徴は何といっても、そのダブルカセット部にあります。録再カセット部は普通ですが、再生部はウォークマン型になっていて、持ち出し可能だったのです。つまり、ダビングも出来るし、ウォークマンも手に入るという、中学生の僕にはうってつけの製品だったのです。価格は当時で¥75000と決して安くはありませんでしたが、先生が絡んでいる事もあり、両親はあっさりと買ってくれました。「明日来るよ」と母親から言われたとき、どんなにうきうきした事でしょう!そして、ついに憧れのラジカセが僕の部屋にやってきました。試しにFMラジオを録音してみると、なんと!ほとんど同じ音質で再生されるではありませんか!勿論、近くでどんなに騒いでも、その声が録音されることもありません(笑)。以前のカセットレコーダーとの差を歴然と感じたこの瞬間から、僕のオーディオ歴が始まったと言えるでしょう。

 

徳平ええおもわんか?

僕は、このラジカセが大好きになり、だれかに自慢したくて仕方がありませんでした。そして、久しぶりに学校に行く事にしたのです(先生の目論見は大成功)。その時、僕の机の隣に座っていたのが、オカルト岡本です。それまで、僕と彼とはほとんど話をしたことがありませんでした。しかし、僕のラジカセの話に異様に興味を示し、僕の家に遊びに来る事になったのです。聞けば、彼のラジカセも日立製という事で、まさに意気投合という感じだったのです。

存在自体がオカルトな岡本

それから中学卒業までの1年半、僕はオカルト岡本達と共に、このラジカセを使って様々な作品を生み出していきました。女の子にDJテープをプレゼントしたり、ラジオドラマをつくったり・・・。オカルト岡本がFMトランスミッターを手に入れてからはミニFM放送にもチャレンジしました。極めつけは、文化祭で番組を放送する企画を生徒会に提出した事です。これはかなり盛り上がりました。それまで教室の隅でこそこそしていた僕達に陽の目が当たるチャンスだったからです。真夜中にオカルト岡本宅で会議し、ベジタブル合田の家で何度もリハーサルを行った僕達は、「いける!」という実感を感じていました。しかし、この企画は最終的には却下になりました。暴力教師が力ずくで・・・。でも、今思い出すと、あまり悔しい思いはありません。なかなか有意義な毎日でしたし、この時培ったノウハウが後々生きる事になったからです。

というように、両親がラジカセを買ってくれた事で、僕の活動の自由度は飛躍的に高まり、また友達の輪も広がっていきました。そして、何台もラジカセを持ちより、仲間でワイワイ試していくうちに工夫が生まれていきました。週末になると、誘い合って電気屋を巡り、憧れのマシンから珍品まで見て回りました。夜は皆僕の家に泊り、「オールナイト・ニッポン」などを聞きながら、女の子やラジカセの話で盛り上がり、飽きると夜の街に繰り出してはイケナイ事をしたりしたものです。オカルト岡本が「徳平ええおもわんかー?」と好きな女子の名前をつぶやいた瞬間を偶然録音したのもこの頃です。女の子にDJテープをプレゼントしたりして勝手に盛り上がっていました。かけがえのない、いい思い出です。本当に毎日が新鮮でした。みんな落ちこぼれだったけど、ラジカセ組を作ってからは目の輝きが違ってきたように思います。

 

ラジカセ1台では物足りなくなって・・・

いまだ学校には行ったり行かなかったり状態でしたが、この頃になると、僕の両親も、こうした活動の大切さを分かってくれるようになり、必要性を説明し納得してもらえれば援助してくれるようになりました。そして中学3年の初夏に購入したのが、東芝のステレオカセットレコーダーと、アイワのステレオ・マイクです。室内録音だけの番組作りに飽き足らぬようになり、携帯型の録音機が必要になったのです。当時、携帯型と言えば、ソニーの「ウォークマン・プロフェッショナル」が定番でした。プロも使用し、性能は据え置きのカセットデッキをも凌駕するこの製品の価格は65千円。とても買えません。2万円台で探したら、東芝のカタログに良いのが見つかりました。モニタースピーカーを内蔵し、FM/AMラジオまで備えたうってつけの製品でした。これは実際重宝しました。音質も普通のラジカセより多少劣る程度で、当時は十分でした。自然の家や文化祭等どこへ行くにも持っていき、貴重な瞬間を記録する事ができました。おかげで今でも当時の記録を聞けばいつでも中学時代にトリップできるのです。そしてそれ以上に重宝したのがアイワのマイクです。「CM-30」という型名のその小型ステレオマイクは6500円という価格ながら、マイクメーカーとしても優れた技術力を持つアイワの面目躍如たる性能でした。人の声などあまりにも生々しく、録音をヘッドホンで聞くとその場に戻ったような感じがする程でした。これは大学に入るまで現役でした。

 

どこへ行くにもマイクと一緒

合チンに負けた・・・

音質のいい録音が出来るようになると、自然と番組作りもさらに凝るようになり、僕達はいつのまにか、かなり高度な編集もこなすようになっていました。すると、FM放送を録音した時には感じなかった不満を感じるようになったのです。ダビングを繰り返すと、極端に音質が劣化し、ノイズがどんどん増えていくのです。3回ほどダビングすると、あのカセットレコーダー程度の音質になってしますのです。せっかくの高度な編集が、これでは台無しです。そんなとき、ベジタブル合田が松下の「ラブ・コール・DJ」というラジカセを買いました。これは凄いマシンでした。FMトランスミッター内蔵で、そのままミニFM放送局にもなるし、それになんと、僕達の憧れ、「ドルビーB」が搭載されていたのです。「ドルビー」というのはアメリカのドルビー社が開発したノイズ・リダクション・システムの事で、カセットテープのノイズを減らす効果があるのです。A,B,Cの3タイプが当時はあり(今はSタイプもあります)、Aはプロ用、Bが民生用、Cが高級民生用というランクでした。ドルビーB1番ランクが低いとは言え、最大でテープのヒス・ノイズを10分の1に軽減するという強力なものでした。羨ましい半面、妬みもあり、僕とオカルト岡本は「合チンのラジカセもたいしたことないわい」と言ったりしてベジタブル合田を必要もなく怒らせたりしました。しかし、実際編集に使ってみると、ドルビーBの効果は認めざるを得ませんでした。

 

「カミナリお年玉」誕生!

僕達はその冬、満を持して大作ラジオ・ドラマに挑戦しようと話し合っていました。第1次世界大戦中の前線におけるドイツ軍とイギリス軍の交流がテーマでした。その年の総決算的なプロジェクトとして位置づけていたので、音質にも気を配っていました。僕はベジタブル合田に頭を下げ、録音に彼のラジカセを使わせてもらう事にしました。新しい試みとして、ラジオ・ドラマを野外で録音し、臨場感を出す計画でした。彼のラジカセはそんなに重くなかったので、その意味でも都合が良かったのです。台本は学校帰りにロンリー近藤の家によって二人で練りました。音楽も、「ジェット・ストリーム」を毎日チェックしたりして集めました。録音では、アイワの「CM-30」が大活躍でした。「ラブ・コール」はさすがにノイズの少ない録音をしてくれました。今聞いても、全く遜色のない録音です。「これはいける」またまた実感が湧いてきました。オカルト岡本は自分が活躍する場があまりないのにへそを曲げ、子供っぽい反抗を時々示して僕を激怒させましたが、順調に録音は進んでいきました。出色の出来は、Sweet藤田の演じた「グレアム中尉」でしょう。下ネタばかりわめいていた彼が、渋いキャラクターにはまるとは!そして、1番大変だったのは編集です。スタジオはスグスネル藤岡の所と決まりました。ソニーのカセット・デッキ(ドルビーB搭載)があったからです。「ラブ・コール」を持ち込み、面倒くさいながらも楽しい作業の毎日でした。効果音は戦争映画からとり、なかなかの臨場感を醸し出していました。「おお、なかなかやん。」「こんなん、しらんやつが聞いたら中学生がつくったとは思わんぞ。」僕達は、自分達が計画したものが形を結んでいく度に、ドラマ作りや編集の楽しさを実感していったのです。完成した当時の感動は言葉で表わせるものではありません。音質も格段に良く、ノイズもびっくりするくらい少なかったのを覚えています。クリスマス・イブにみんなで集まり、完成パーティーを盛大に開きました。そしてその夜、エネルギーの有り余った僕達は、深夜徘徊に出かけ、クラスの女の子の家を探し出しては、ポストに作品を配達して回りました。訳の分からない奇声をあげながら・・・。ある女の子が「面白かったよ」といってくれた事に気を良くし、毎年、年末年始に作品を配達しようという事になりました。僕達はそれを「カミナリお年玉」と呼び、1年の目標にするようになったのです。

 

中学時代の最高傑作!

つらいながらも楽しい思い出が詰まった中学生活も終わりに近づいていました。さすがにクラスの雰囲気にも緊張感が感じられるようになり、受験が終わるまで活動も中止せざるを得ませんでしたが、欲求不満はつのる一方で、終わったら中学生活の総決算をやろうと密かに計画したりしていました。

公立高校の合格発表の日は雨でした。僕は同じ学校を受けた仲間と、発表を見に行きましたが、そこに、僕の名前はありませんでした。点数は十分取れていたはずでしたが、内申書が響いた様です。仕方なく、僕は今治明徳高等学校に行く事に決め、悔しいながらも心に整理をつけました。

若いというのは素晴らしい事で、僕は大きな挫折を味わったにも関わらず、頭の中はすでに卒業記念企画の事でいっぱいでした。僕が録音してきた中学校の行事やクラスの様々な出来事を散りばめながら、3年間をふりかえるという内容で、完成したらクラスメートに配るつもりだったのです。10年たっても聞いてもらえる物を作ろう!と意気込んでいました。僕達の活動を知ってもらう絶好の機会です。これまで以上のクオリティーが求められていました。その為、私は両親に、卒業記念の前倒しとして、 RS−B60という型名のテクニクス(松下)のカセットデッキを買ってもらったのです。落ち込んでいる僕を慰める意味もあったでしょう(十分でした)。その頃はカセットデッキの性能が急速に向上していた時期で、アイワ、ソニー、アカイ、ナカミチ、テクニクス、など各メーカーが非常に個性的なマシンを投入し、覇権を競っていました。その中でRS−B60という機種を選んだ理由は、ノイズ・リダクションとしてDOLBY B/Cのほかにdbxまで搭載しているにも関わらず、¥49800という価格だったからです。当時5万円以下ならこれで決まり!という機種だったのです。ノイズ・リダクションは、先程説明した通りノイズを減らす効果があるのですが、DOLBY Cは最大100分の1に、dbxに至っては1万分の1に減らすという驚異的パフォーマンスだったのです。僕はそれまで、少し音質のいい編集をしようとすると、ベジタブル合田やスグスネル藤岡のマシンを借りなければならなかったので、このカセットデッキは本当に待望のマシンだったのです。中学校最後の遠足の日に、このマシンはやってきました。遠足中「今日帰ったら来とるはずじゃけん、楽しみじゃあ」とオカルト岡本やベジタブル合田に自慢したのを、いまでも鮮明に覚えています。帰宅したら、既に配達されていました。「おお!これが・・・」箱を開けるのももどかしく、いそいでラジカセの横にセッティングしました。そして、ピン・コードでラジカセとつなぎ、FM放送を録音してみたのです。このとき、私は初めてラジカセを購入した時と同じぐらいの感動を覚えました。モニターヘッドホンで聞いても素晴らしい音です。高音もあくまで伸びてます。重心も座り、さすが、単品コンポです。ラジカセとは比較になりません。さらにノイズ・リダクションの効果を確かめる為、マイクをつなぎ、自分の声を録音してみました。まずはdolby Cです。「おお!」いままで何回も録音してきた自分の声ですが、明らかに新鮮です。ノイズがほとんど気にならないのです。そして、dbx。「・・・」静かです。ノイズはほとんどありません。凄すぎます。こんな凄いもの手に入れていいのだろうか?と思ったほどです。ようやく、友人達に頭を下げなくても質のいい編集ができるようになったのです。私は「卒業記念企画」として、ノイズリダクション規格にdbxを採用することに決めました。これなら10年後に聞いても音質は保証されると思ったのです。(実際今聞いても、音はすごくいいです。)オカルト岡本も飛んできて、このカセットデッキに夢中で挑んでいました。「高音伸びとるなあ」と彼も感心していましたっけ。僕は卒業式の後、クラスのみんなにこの企画を公表し、協力を求めました。40人全員に、クラスメート向けのメッセージを録音してもらう必要があったからです(一人一人が40人に別々のメッセージを伝えるという凝り様でした)。企画が動き出すと、いつもの癖でオカルト岡本はすねてしまい、録音に現れませんでした。変に僕にライバル心を持っていましたから。僕はベジタブル合田、ロンリー近藤らとパーソナリティをつとめ、計2時間にも及ぶ作品を作りました。合唱コンクール、自然の家、運動会、先生が激怒した瞬間、卒業式・・・様々な瞬間がそこには散りばめられていました。そして、テープの終わりには、40人分それぞれにメッセージも編集して・・・。僕自身、感動に浸りながらの編集。実に幸せな作業でした。ダビングしたテープを仲間と一緒に配った時は本当に「やって良かった」と思いました。みんな素直に喜んでくれたからです。それからしばらく、クラスの友人に会うたびに、このテープのお礼をいわれました。僕は学校にはあまり行かなかったけれど、みんなと出会えてよかったな、と思ったのです。聞いてくれる人がいる、という実感は何より作品につぎ込むエネルギー源になります。実際、この作品は中学時代の最高傑作になりました。

中学時代を総括しますと、編集の中心はラジカセであり、出来る事も限られていました。しかし、その制約が工夫を生み、逆に自由度が低かったからこそ、自由で優れた作品が生まれたと言えるでしょう。そして、新しいマシンが導入される度に、少しずつ表現の幅が広がっていったのです。

(その後、RS-B603年間現役でしたが、壊れてしまいました。修理に出しても、壊れたまま戻ってきました。いいかげんなメーカーです。仕方なく中古で同じ物を購入しましたが、それも同じ症状で壊れました。)

 

強引に買ってもらったコンポ

高校に入り、私は一人遠い今治まで汽車で通うことになりました。がんばって、僕を落とした高校を見返してやろう、と意気込んでもいました。私は母親と、志望校に合格したら家にコンポを買ってもらうという約束していました。もちろん不合格でしたから、買ってもらえないはずでしたが、得点が合格ラインよりかなり上にだった事がはっきりした(その高校に勤めている先生がそっと教えてくれた)ので、買ってもらえる事になりました。名目上は「家のもの」でしたが、そんなものに興味を示しているのは僕だけなので、事実上僕の物になりました(笑)。僕はカタログやオーディオ誌(サウンド・レコパル、stereo等)を参考にして、最低価格ラインの中から機種を選びました。少し長くなりますが、その思い出を書きたいと思います。

最も大切なレコード・プレーヤーにはデンオンのDP−37F(¥49800)を選びました。デンオンはソニーと並ぶオーディオメーカーですが、特にレコード・プレーヤーについては1番評価の高いブランドでした。他の機種と比較したことはないのですが、音質に関しては「こんなものかな」程度です。カートリッジを変えればかなり良くなるはずですが。そう思っているうちにCDが出始めたもので・・・。これは今でも現役です。

次に大切なのはチューナー。当時最も一般的な音楽仕入れ口だったからです。レンタル・レコードもあるにはありましたが、種類も少なく高かったのです。みんなお目当てのアーティストの曲を録音する為、FMをかじりつくように聞いていました。今のFM番組はドライブやBGM用にイージーに作られていますが、当時はそんな僕達がリスナーの中心でしたから、趣向を凝らした名番組が沢山ありました。FMリスナーの為の雑誌も、「FMレコパル」、「週刊FM」、などなど5誌以上ありました。さて、そのチューナーに私はパイオニアのF−120D(¥49800)を選びました。チューナーの名門といえばトリオ(後のケンウッド)とパイオニアですが、当時この機種をパイオニアが発表したばかりで、トリオの機種より性能が上だったからです。ちゃんとアンテナも屋根の上に立てたら、ものすごく良い音でした。ノイズも少なかったし。ひょっとしたらレコード・プレーヤーより良かったかもしれません。

アンプはヤマハの¥49800のもの(型番は忘れてしまいました)を買いました。アンプについては良く分からなかったというのが正直な所でしたが、雑誌でそこそこの評価をもらってましたし、5万円以下ではこれしかなかったのです。ラジカセのアンプは音を出さなくても、音量を上げると「シャー」というノイズが出てしまいますが、さすがにこのアンプはそんな事はなく、腰は座っていませんが、繊細な音でした。しかし、5年後、突然壊れました。仕方なく中古で同じ機種を買いましたが、それも同じように壊れました。アンプは長く使えるはず。これ以来、僕はヤマハというメーカーを信用していません。

スピーカーはダイヤトーンの135千円の密閉型を買いました(型番は忘れました)。田舎で視聴もままならないので、店員の勧めに従いました。スピーカーといえばダイヤトーン。この機種も安いながら、いかにもダイヤトーンらしい上品な音を出していました。ただ、ツイーターが壊れやすく、よく交換したものです。今では、実家のテレビ用スピーカーと化しています。

とまあ、なんだかんだ言っても、これまでの選択は実に妥当なものです。僕と同年代で当時コンポを組んだ人は、ほとんどの人がこの選択をしているはずです。一方、怒られたのがカセットデッキです。僕が選んだのは、あのソニーのウォークマン・プロフェッショナルだったのです。型名WM-D6C、ドルビーBに加えドルビーCも搭載し、クォーツ・ロックで回転を制御した最新型でした(今でもソニーのカタログに載っています)。「こんなん、お前しか使わんじゃないかー!」と親父は怒っていました。「でも性能えんじゃ」と僕は反論していましたが、(実際、テクニクスのRS-B60より音は良かった)、今考えると少しやりすぎでした。しかし、そんな事はお構い無く、このマシンはその後のTONEを支えることになったのです。RS-B60と組ませれば質の高いダビング編集が出来るし、野外録音にも重宝したからです。その後、オカルト岡本、ロンリー近藤、プリティ金子らも購入し、当時TONEの標準規格でした。手になじむ合金製のボディ、精悍なブラックデザインにマニア心がくすぐられたものです。ただ欠点はヘッドのアジマス(テープとの相対角度)がすぐ狂う事です。しょっちゅうドライバーで調整する必要があり、困りました。

精密すぎて寿命も短かったWMD6C

 

そして、高校中退・・・

長々と購入機器について述べたのは、このシステムを組んだ事で、当時のアナログレベルの作品を制作するのに必要な機器がほぼそろったからです。おかげで、作品の音質は放送局並みになり、マシン性能の制約によりあきらめていた企画も出来るようになりました。やる事があり過ぎて、困るくらいでした。この頃の僕の毎日の楽しかったこと!っと言いたいのですが、そうはうまく行きませんでした。それはTONE関係ではなく、僕の通っていた高校が原因です。

今治明徳高校は、かなりの底辺校でした。私は、偏差値が低いとかには、もうこだわっていませんでしたが、皆が死んだ魚のような目をしていたのには耐えられませんでした。親に無理矢理通わされているツッパリ達が幅をきかせ、みな自分に関係なければいい、とこそこそ過ごしていました。僕は、「まあやれるだけやってみよう」、とは思っていましたが、無理でした。友人も出来ましたが、その友人が因縁をつけられてツッパリグループから苛められるようになり、僕が間に入った事で僕にも矛先が向けられはじめました。僕は担任にも相談してみましたが、なしのつぶてでした。結局袋叩きにされた僕は、1学期でその高校を中退したのです。

そんな中、楽しみはやはり、週末に集まってくれるオカルト岡本達でした。僕達は、それぞれ違う高校に進んだにも関わらず、週末になるとスタジオと化していた僕の部屋に集まり、いろいろ実験したり、企画を練ったりしました。私は退学してサバサバした気持ちにはなっていましたが、毎日独りぼっちだったので、彼らの存在は本当に救いになったのです。

 

送信アンテナは自作した

すべてを忘れた夏休み!

夏休みに入り、僕達は、初の本格的定期放送への準備に入りました。ロンリー近藤の提案により団体名を「TONE」とし、ハード、ソフト両面の充実が図られました。オカルト岡本、ロンリー近藤らとバイトに精を出し、オーディオ・ミキサーも購入しました。僕の家の屋根にはオカルト岡本設計による放送アンテナが建ち、かなりのエリアに電波が届くようにもなりました。徹夜してオカルト岡本とジングルを作ったのもこの頃。2人ともテンションが高く、魔法のようにアイデアが湧いてきた事を覚えています。そして、この夏、一つの伝説が生まれました。「FM12時間大マラソン」です。ぶっとおしで12時間放送し続ける、という実に夏休みらしいこの無謀な企画は、当時の我々のテンションを示す一つの象徴として、強烈に記憶されています。ひとつ俺達の限界に挑戦してみよう、と思ったわけです。ロッカー永田、オカルト岡本、ロンリー近藤、ベジタブル合田、通路をふさぐ阿部らの5人リレーで乗り切るつもりで夜9時にスタートしたものの、脱落者が一人、また一人、と最後は惨めな結末を迎えてしまいました。ですが、当時の熱気と共に記憶されているこの企画は、僕達の間では、いまだに語り草です。どうもこの頃の僕達は、結果に満足する、というより大胆な企画を立てること自体に満足していた節があります。まったく、子供というのは他愛もないものです。(その後2度この企画は復活しませんでした。やはり無謀だと悟ったからです。(笑))

 

きつかった12時間大マラソン放送

AIWAのデッキ

上がAIWAの名機AD-FF70。3ヘッド、ドルビーB/C/HXPRO、バイアス自動調整機能、等現在でも必須とされる機能がすべて搭載されたマシン。

下は中学卒業時に購入したデッキ(RS−B60 テクニクス)。2ヘッドながら、ノイズ・リダクションとしてDOLBY B/Cのほかにdbxまで搭載しているにも関わらず、¥49800という価格であった。

さて、そうした準備期間の後、TONE初の定期放送は夏休み明けからスタートするわけですが、その前にこの時期で最も重要なマシンについて語らねばなりません。それはAIWAのカセットデッキ、AD-FF70(¥84800)です。この機種は、3ヘッド(録音用、再生用、消去用に3つヘッドがある、普通は録音・再生共用で2ヘッド)、ドルビーB/C/HXPRO(高音の録音限界を上げる効果がある)、バイアス自動調整機能、等現在でも必須とされる機能がすべて搭載され、当時10万円以下で発売されていたデッキの中では最高性能を誇ったマシンだったのです。現在のカセットデッキは非常に音が良くなりましたが、このカセットデッキはその先駈けといえるような位置にいたと言えます。もちろん、高嶺の花でした。が、ある日オカルト岡本達と電気屋を巡っていると、このデッキが、展示品処分として¥64800で売られていたのです!私は、即座に決断しました。「よし、あの金を使おう!」と。

そのお金とは、父方の祖母から高校入学祝いとして頂いた入学祝(8万円!)です。私が登校拒否をしだしてからというもの、親戚の人達は、私のことを自分の子供のことのように心配してくれました。そして、私が高校に進学した事を聞くや、みなさんどっとお祝いをくれました。それでも、この8万円には驚きました。祖母がいかに僕を心配してくれていたか、身に染みるようでした。そして、何に使おうかといつも考えていました。電気屋でアイワのデッキを見たとたん、「これだ!」と思ったのです。このマシンは今後の僕の活動を支える中心になるだろう、という確信がありました。購入して録音してみるなり、音の良さに驚きました。録音元との差がほとんど感じられないのです。RSB60WM-D6Cとは次元が違う音で、本当に驚きました。オカルト岡本もビックリしていました。それに、テープ毎に微妙に異なる磁気特性を感知し、自動的にバイアス電流を調節する機能もすごかったです。テープが変われば音も変わるというのがそれまでの常識でしたし、悩みの種でした。しかし、このデッキを導入してからはテープが変わっても同質の録音が出来るようになりました。高校は3ヶ月で退学してしまい、祖母にはまた心配をかけることになりましたが、このマシンは私が大学3年になるまで、TONEのマスターデッキとして君臨しました。このデッキで録音した作品は、デジタル時代の現在でも遜色ないレベルです。当時は聞く人聞く人、みな驚いていました。

ただ、この製品には壊れやすいという欠点がありました。3ヶ月後には様子がおかしくなり、修理に出しましたがもっと壊れて帰ってきました。出しては壊れて帰ってくる、というのを6回も!続けた挙げ句、ようやく新品と交換という形で返ってきました。交換してからは、かなり持ちましたが、私は修理担当の感覚を疑います。明らかに壊れているのに、「動作チェックもした」と言い張るのです。「カセットが回らない」、という故障でしたから、電源を入れてPLAYを押せばチェックできるはずです。なのに、返ってくる度に、「ウィーン」とうなるだけで回りません。祖母のプレゼントです。本当に腹が立ちました。こういう事はAIWAに限りません。sonyでも、松下でも経験しました。私はAIWAというメーカー、今でも大好きです。しかし、本当に声を大にして言いたいです。メーカーの修理は詐欺だと。修理代を巻き上げた挙げ句に、新品を買わせる為、わざと直さないとしか思えません。ちゃんと修理チェックをしていないのが、その証拠です。確かに、修理は儲からないでしょう。でも、法律に定められているから、しないわけにはいきません。そこで、いい加減に修理して適当にお茶を濁しているのです。まったく、腰抜けばかりです。AIWAのデッキは修理に出しているうちに、1年間の保証期間の大半が過ぎてしましました(怒)。

 

コミュニケーション・ジョッキー、スタート!

さて、すこし気持ちが入ってしまいましたが、なんの話かというと、そうそうTONE初の定期放送についてでした。オカルト岡本達の協力もあって、私の家の設備が急速に整っていったのは、十分過ぎるほどお話しましたね。というわけで、夏休み後に始めようということで中学時代の他の仲間にも声をかけてみたのです。そこに集まってくれたのがsweet藤田とカキカキ森です。彼らの加入は決定的でした。というのも、それまでの僕達は企画をたてること自体に満足するという感じでしたから、結果が失敗でもそれなりに満足していたのです。マシンを使いこなす方に興味があった、とも言えます。ところが、彼ら2人は違いました。自分の番組をより魅力あるものにすることが彼らの1番の関心事でした。僕達はどう考えても落ちこぼれでしたが、彼ら2人は優等生でした。クラスでもぱっとしない自分達がいくらがんばっても、たかが知れたもの、と僕達が思い込んでいたのに対し、彼らははっきりと自己主張し、前進志向を持っていました。彼らの加入はものすごい刺激となり、TONEという組織が固まっていったのです。

9月に入り、僕達は「コミュニケーション・ジョッキー」という番組でスタートを切りました。この番組名はオカルト岡本が決めたもので、実に適当です。「コミュニケーション・ジョッキーでええか?」と彼がいきなり切り出したのです。(このセリフは後々まで記憶され、僕らの中では、「この辺で妥協するか?」という意味で通っています。)カキカキ森とsweet藤田の番組はさすがとしか言い様のないものでした。本当にラジオを聞いてるようで、それに比べると僕やオカルト岡本の番組は実に子供っぽいものであることを思い知らされました。それと同時に、それまで感じたことのない緊張感を覚えたのも事実です。僕達はもともと落ちこぼれでしたから、そういうのは苦手でした。特にカキカキ森は遠慮なく、「もうちょっとちゃんとせいや」とずけずけと言ってきました。特に僕達が、「レッツゴー、どおおおおおん、キュー!!!」、「たけちゃんがイクー!」、とギャグを飛ばし始めてからは、彼は僕達と明らかに一線を引き始めました。オカルト岡本がエキサイトの余り僕の家の屋根に頭突きした時も、皆腹を抱えて笑っているのに対し、一人不機嫌そうに横目で僕達をにらんでいました。最初はまだ我慢できたのですが、次第に彼が僕達を見下しているのが分かってきましたし、彼が暴力を振るい始めたこともあり、「もう限界だ」と皆が言い始めました。カキカキ森をさそったsweet藤田も、彼にはうんざりしていました。彼に面と向かって注意できるような度胸を持った人もなく、僕達は仕方なく、彼をだますことにしました。

10月に入ったある日、 sweet藤田が、「岡本がトランスミッターいじっりょって、壊したらしいわい」と学校でカキカキ森に伝えました。下校途中に彼ら2人は僕の家に寄ったので、僕も話を合わせ、「放送は中止するしかないんじゃないかのう」と言いました。「それいくらぐらいするんじゃ?」とカキカキ森が言い出したので、慌てて「もう売ってない」と取り繕ったのを覚えています。「しゃあない。あたらしいこと探すか」という気障なセリフを残し、彼は去っていきました。今もし彼に会ったなら、彼を責める気持ち半分、本当のことを伝えたい気持ちも半分、というところです。

その週の土曜日、カキカキ森を除いた全メンバーが、いつものように僕の部屋に集まりました。予定の時刻になってもカキカキ森が来ないのを確認し、「ざまアみろ!」とみんな口々に叫び自由を満喫しました。「独裁政治は終わった!」と局長のオカルト岡本も叫んでいましたっけ。

 

サウンド・スクエア誕生!!

僕達は、sweet藤田の提案により番組名を「サウンド・スクエア」に変更し、新たな気持ちで放送に望みました。この番組こそ、「TONE史上最も充実した定期放送」として語り継がれている栄光の番組なのです。たった6ヶ月の放送でしたが、黄金期と呼ぶにふさわしいものでした。せっかくですから、当時の番組を振り返ってみる事にします。

カキカキ森がいなくなった後、sweet藤田は良きリーダーシップを発揮し、番組を引っ張ってくれました。彼は、「sweet藤田のThe Music Island」という番組を担当し、佐野元春やナイアガラ・サウンドの特集で1番の人気を誇っていました。いま聞き返しても、彼の渋い声と、絶え間なく紹介される厳選されたポップ・ミュージックには、「かなわんなあ」と思わされます。彼がいなければ、サウンド・スクエアがここまで記憶されることもなかったと思います。中途半端な活動で満足していた僕達の姿勢を根本的に変えてくれたのは彼だからです。カキカキ森のように「おまえらとは違う」という態度ではなく、あくまで彼は仲間として、僕達の稚拙な番組の中に、作り手でさえ意識出来なかった魅力を見出し、僕達を励ましてくれました。

僕は「タケシのアイヨック・ワナナッキー」というふざけた番組を作っていました。人気コーナー「タケちゃんがイクー!」は、エロ本自動販売機特集や、新聞配達人ドッキリなどの企画で仲間には好評でしたが、かなり独り善がりなところがありました。しかし、なんといっても評判だったのはジングルでしょう。多重録音による一人コーラス?もどきの「アイヨックワナナッキー!!」は馬鹿受けでした。また、僕は番組の終わりに、「今日の放送時間は○分×秒でした」、といつもしゃべっていましたが、年末スペシャルの時、「3340秒」というべきところを、「334秒」と言ってしまい、「334秒の男」と5年くらい言われつづけました。

オカルト岡本は「岡本聖二のCity Jack Sound Package」と、一見無難なタイトルの番組を始めましたが、タイトルとは裏腹に、いいかげんすぎる企画がたたり、30分の番組が10分で終了してしまう始末でした。後半、盛り返しを図り、番組名を「The Music Diary」と変更し、「ザ、ザ、ザ、ミュージック、ミュージック、ミュージック、ダイアリー、ダイアリー、ダイアリー」とディレイのかかったジングルを作ったりしていましたが、どう聞いても「ザンジ、ザンジ、ザンジ」としか聞こえず、「次は「岡本聖二のザンジのコーナー」です」とからかわれていました。曲はアニメや河合奈保子が中心だった様に思います。彼も、僕に負けず劣らず、かなり独り善がりな番組でした。

ロンリー近藤は「ロンリー近藤のええじゃないか」で、sweet藤田をしのぐ程のDJを披露し、マニアックな番組作りでカキカキ森の穴を完全に埋めてくれました。彼は自分の担当している時間以外は、漫画を一人読んだり、たまにポソッと突っ込みを入れてきたり、かなりなマイペースで、いい味を出していました。後半になるにつれ、番組作りが面倒臭くなったらしく、行き当たりばったりの作風になり、非難される度に「ええじゃないかあ」と名言を吐いていました。

ベジタブル合田と通路をふさぐ阿部は2人で「合田と阿部のTALK&TALK」という実にぶっつけ本番の番組で、お茶の間を沸かせていました。なにしろ、彼らは下手でした。しかも、何の準備もしてきません。そのまま本番に望むのですが、オープニングで、しゃべりを入れた瞬間に笑い出したり、「何しゃべろか?頭ん中からっぽや」と放送中に言ったりと、かなりブラックな笑いを僕達に提供してくれました。その素人っぽさと、気取らない普通っぽさが実に良かったです。気配りの合チンと、とぼけた阿部のコンビは絶妙で、本番よりも打ち合わせの時に本領を発揮し、まさに爆笑のひとときを提供してくれました。その彼らの番組メイキングは、「カミナリ落し玉第4号」で聞く事が出来ます。

 

カキカキ森を追放し、恐いものなしとなった僕達の活動はとどまるところを知りませんでした。年末スペシャル、お正月スペシャルと銘打って特番を組んでは成功させ、以前の悪夢「12時間FM大マラソン」が嘘のようでした。sweet藤田は学校帰りに必ずといっていいほど僕の家に寄り、僕と企画を練りました。当時僕は昼夜逆転の生活でしたから、彼の声でいつも起こされていました。彼が来なかった時はどことなくほっとしたものです(笑)。毎日のように会って話す訳ですから、当然TONEの活動も僕達2人によって練られていきました。こうして番組の運営が軌道に乗っていったのです。

そのうち、オカルト岡本もトランスミッター内蔵のダブルラジカセ「サテライト」を購入し第2のスタジオとして頭角をあらわしてきました。彼はそれまで日立の古いステレオラジカセしか持っていなかったので、喜びもひとしおだったと思います。それまでの彼は「企画倒れの岡本」として有名でした。局長とは名ばかりで、企画を提出するのはいつも彼なのですが、実行力がないため、途中から僕やsweet藤田が主導権を握ることになってしまい、彼はいつもすねていました。番組が「サウンド・スクエア」に変わった当初は良かったのですが、主導権が完全に「sweet藤田・ロッカー永田コンビ」に移ってからは、一時期完全にやる気をなくしていました。番組もいい加減で、録音に遅れてきたりもしました。しかし、「サテライト」を購入してからは俄然はりきり出し、敢然と僕をライバル視した番組作りを始めました。番組ジングルにもはっきりとその姿勢が伺えます。番組の音質も格段に良くなり、以前のようにこもった音は聞かなくなりました。この後、彼は以前のようにすねる事はあまりなくなりました。おそらく自信がついたのでしょう。数回彼の部屋で放送した事もあったと思います。放送の中継所も、オカルト岡本宅、ベジタブル合田宅とし、エリア拡大を図りました。「サウンド・スクエア」後期における、オカルト岡本のがんばりは、「サウンド・スクエア」により一層の充実をもたらし、僕達の思い出に彩りを添えることとなりました。彼にとっても後期の頑張りは1つの転換期として位置づけられているはずです。僕は当時の事を思い出す度に、人間の成長の不思議さを思います。決して連続的に成長するのではないのです。それまで何か詰まっていたものが、不思議なきっかけで、お風呂の栓を抜くようにすーっと抜けていくのです。「サウンド・スクエア」後期になって、ようやく僕は彼と気持ちがひとつになりました。(まさかその直後に大喧嘩がまっているとは・・・)

 

僕達の生活の中で、毎週土曜日の放送は、当時唯一と言ってもいい自己表現の手段として欠かせないものになっていました。そして、この活動がいつまでも続くと信じて疑いませんでした。そんな時、降って沸いたのが「新潟に敬和学園高等学校というのがあるが受験してみないか?」という親の勧めでした。「僕は予備校で大検をとって大学を受ける」と当時はうそぶいていましたが、全然勉強しませんでしたし、当時の予備校は大検クラスなんてありません。毎日夕方近くまで寝ている僕を、両親が心配しないはずはありません。見かねたクリスチャンの叔母が両親に薦めたのが敬和でした。そこはキリスト教精神に基づく人格教育に力を入れている高校で、普通の高校には入学させてもらえない僕のような生徒にも配慮をしてくれるところだったのです。そのパンフレットを読んだ時、僕の心は動きました。中退した明徳高校とは正反対の充実した学校生活がありそうです。僕は受験を決意し、すがる思いで新潟に旅立ちました。テストは簡単でしたが、面接が難関でした。寮面接(合格しても入寮が許可されないと入学できない)では「寮は君が考えているほど甘くはない」といわれる始末で、僕は愛媛に落ち込んで帰りました。帰宅した直後、オカルト岡本が「お前がおらんかった時の放送じゃ」といってテープを持ってきました。これでも聞いて気を紛らわせよう、と聞き始めたところ、とんでもない内容をオカルト岡本がしゃべっていました。「今永田君は新潟まで受験に行っています。落ちろ落ちろ!」非常に刺のある言い方でした。彼は創価学会員だったので気に入らなかったようです。僕は激怒し、憂さ晴らしに彼の秘密を友人にばらした後、彼と絶交しました。sweet藤田が仲を取り持とうと努力していましたが、彼から謝ってこない限り、許すつもりはありませんでした。僕はそれから数日、眠れない毎日を送りました。頭では絶交してすっきりした、と思っているのですが、不思議と彼の事を考えてしまうのです。僕は自分の本当の気持ちを悟り、意を決してオカルト岡本に電話しました。「お前のやったこと忘れるから、俺のした事も忘れてくれ」、と。「おお、ええで」と軽く2人は和解、僕は「俺の3日間なんだったんじゃ」という思いを胸に秘め、新潟に旅立った(幸い合格した)のです。こうして、結果的には、僕が新潟の高校に入り直した事で、あっけなく「サウンド・スクエア」は終わってしまいました・・・。そして、それからのことはまたの機会にしたいと思います。

 

たった6ヶ月の放送期間でしたが、この6ヶ月がどれほど素晴らしかった事か!本当に楽しかった・・・。何より、駄目な僕達が、毎週しっかり集まって、話し合い、よりいいものを目指して取り組んだ事が、その後の僕達の人生でどれだけ自信になったことでしょう。当然、放送記録はすべて「永久保存」されています。僕は今でも、何か自分を見失ったり、自信がなくなったりした時は、当時のテープを聞くのです。そうすると、なんとも言えない甘酸っぱい気持ちになり、心が満たされ、悩んでいる事がすごく小さい事に思えてくるのです。こうして、TONEは「サウンド・スクエア黄金時代」を通して、今の組織の基礎が築かれていったのです。

もう、この頃には戻れない・・・

 

戻る