障害者差別とは



ここに、ある男がいる。

仮にA君としよう。

A君は高校を卒業したが、大学には入れなかった。

試験には、合格したのだが、「何かあったら困る。」という訳のわからない理由で入学を事実上拒否されてしまった。A君は別に素行に問題があった訳ではない。A君は憤慨したが、家族も反対したので、断念せざるを得なかった。

A君は就職も出来なかった。そこでも、皆、口をそろえるように言うのである。

「なにかあったら困る。」

思い当たる節はない。

訳の分からないまま、月日が過ぎた。

成人したA君は、何がなんだかわからないまま、「就職支援センター」という所へ送られた。そこには、A君と同様、行き場のない者が多く入所していた。

A君は、当初、「半年から1年程度の寮生活を送り、就職に必要な技能を身につける」というつもりだった。しかし、すぐに、それが間違いだという事に気が付いた。

入所している人のほとんどが、10年以上そこで暮らしていたし、彼らの眼は死んだ魚のようだった。つまり、希望がないのである。社会に出るどころの話ではない。「センター」の職員も、彼らを完全に「役立たず」の「やっかいもの」として扱っていた。彼らは、そのように扱われる事に対して、不満そうではあったが、あきらめてるようだった。そして、実際、「自分はやっかい者」と信じている者までいた。

A君は、成人したばかりの、前途有望と自ら信じて疑わない青年である。猛然と反抗を試みた。

だが、すぐ、壁にぶち当たった。反抗を始めた途端、「センター」の職員による「いじめ」が始まったのである。個室に閉じ込められ、食事も満足に与えられず、トイレの回数さえ制限された。

「こんな所出ていってやる!」と、A君は「センター」の職員に怒鳴った。しかし、職員は、冷たくこう言った、「それは親の許可がないとできないよ。」

そうなのだ。不思議なことに、その「センター」では、親の許可がなければ、外出も出来ないのである。驚いたA君は理由を聞いてみた。そして、その答えもこうだった。

「なにかあったら困る。」

繰り返すが、A君は素行に問題があった訳ではない。

納得いかないA君は、両親の許可を得て外出し、周囲の人達に、実状を訴える事にした。A君は思った。「センター」の実状を公にすれば、きっと大騒ぎになるに違いない。マスコミだって黙っちゃいないだろう。

ところが、A君の話を聞いた人達は、口々にこう言い始めた。

「あんないいところはない。」

そして、

「センターに入れない者もいるのに、もったいない事をいうな」

と説教される始末だった。

A君の家族も、同情はしてくれたものの、「センター」を出る事には反対だった。

A君は家族を頼らず,一人暮らしをする事に決め、不動産屋を回ってみた。が、驚いたことに、彼らは、不思議そうにA君をみつめ、こう言うのだった。

「親はどうしてるの?」

「なぜ、センターを出て、わざわざ街に出てくるの?」

A君は狐に摘ままれたような気持ちだった。普通の成人した男性がアパートを借りるとき、そんな事を聞かれるだろうか? 僕は普通じゃないんだろうか?

そして、彼らは、やはり、決まってこう言うのだった。

「なにかあったら困る。」

「なにか」とは何なのだろう。聞いてみても、皆はぐらかすばかりだ。

すべてが、狡猾にA君が自立できないよう仕組まれていた。

A君は思った。

これは夢に違いない。

高校の友人達の中で、こんな目にあっているのは自分だけだ。夢でなければ、この差別はなんなのだ。基本的人権が保証された日本で、こんな扱いが許される訳がない。

だが、これは、夢ではなかった。

A君につきつけられているのは、現実だった。

確かに、A君が思うように、普通の人がA君と同じ扱いを受けたとすれば、大騒ぎになるだろう。

しかし、このA君の置かれた境遇に、ことさら疑問を持つ者は、あまりいないようだ。

なぜなら、A君は

「障害者」

だったからである。

A君は今年で、「センター」入所10年目を迎える。





ここに登場するA君は実在しない。

ただし、障害者が実際経験する、典型的な差別を描いたつもりである。

私は、A君を、わざと、障害者と分からないように描いてみた。

皆さんは、どう感じられたろうか?

言うまでもなく、「就職支援センター」とは、いわゆる、「施設」のことである。

「施設」というものは、そんなにひどい所なのだろうか? TVなどでは美談として語られる事の多い、「施設」。そこで、働く人も、心優しい人が多いはずでは・・・?

では、仮に、「施設」が理想的な環境だったとしよう。心優しく、専門知識を持ち、障害者の立場で接してくれる職員と、施設環境・・・。

それでも、やはり、「施設」が存在する事自体が問題である。

我々には

「障害者は施設に入るもの」

という先入観がある。

「専門の職員がいる施設で暮らすのが、本人の体のためにもいいし、どうせ働けないな

ら、世間の冷たい目の中でつらい生活をするより、幸せに違いない。」

と思う人も多いだろう。

想像して欲しい。

あなたが、宝くじで10億円当てたとしよう。

あなたは何をするだろうか?

いろいろ、人によって様々だろう。

が、必要もないのに、病院に入院する人はいないのではないか。

こう言われたら、どうだろう。

「病院に入院して、毎日検査して、健康管理してもらった方が寿命は確実に伸びる。わざ

わざ社会に出て働く必要もないし、死ぬまで入院したら?」

確かに、それはそうかもしれない。しかし、それでは、生きる意味がない。

そして、障害者も、同じである事はいうまでもない。

障害者は、その、生きる意味のない「施設」で暮らさざるを得ないのである。

こうして考えてみると、「施設」というものの正体が見えてくる。 ほとんどの「施設」の実態は、障害者を、生かさず殺さず、効率よく面倒をみる為に、社会から隔離して収容しよう、というものである。 つまり「臭いものに蓋をする為に」作ったものだ。 その証拠に「施設」は、我々健常者の目に触れないよう、人里離れた山奥に立てられたものが多い。 決して、障害者が望んで作られてきたものではない。我々、健常者の都合で作られてきたものなのだ。

我々の都合で、つまり、ありていに言えば、「出来るだけ健常者の負担を少なくする為に、役立たずを集めて、まとめて面倒をみる」 目的で作られた「施設」が、障害者にとって、居心地がいいわけがない。 立派な心持ちで勤める職員も、いる事だろう。 だが、器がこれでは、自然と、落ち着き先も決まろうというものだ。

障害者問題は、能力の問題だから、ある程度仕方がない、という人も多いだろう。

しかし、それは、間違いだ。

想像して欲しい。

もし、あなたが、突然変異で、腕が3本あったら・・・。

あなたは、その第3の腕を使って、人より多く仕事をするだろうか?

その方が、能力は高いのだから、そうする方が、理に適っている。中には、そうできる人もいるに違いない。

しかし、大抵の人は、その第3の腕をひた隠しにするのではないか?

周囲からは好奇の目で見られ、結婚、就職で大きな差別を受けるに違いないからだ。

おそらく、あなたは、周囲から、「障害者」の烙印を押されるだろう。

こう考えていくと、「障害者差別」とは、肌の色や、出身について行われる差別と同じく、根拠のない差別だという事がおわかりになるだろう。この社会では、我々健常者も、能力によって振り分けられる事が多いのは確かだ。それが良いか悪いか議論のあるところであるが、その振り分けにも、障害者は参加させてもらってないし、第一、障害者が出会う差別は、能力とは関係のない場合が多い。

障害者は、生まれつき、障害者なのではない。勝手に世の中から、線引きされ、障害者にされているのである。

体重80kg以上の人が利用できないエレベータがあったとしたら、猛抗議を受けるだろう。そして、80kgの線引きで、除外された人は、根拠のない差別に怒りを感じるに違いない。

同じように、ビルにエレベータやスロープがなかったら、車イスの人は憤りを感じるのである.勝手に、歩ける人しか来ない、と線引きしているからである。りっぱな差別である。

この、根拠のない線引きが、障害者を生み出しているのである。そして、この線引きを作り出しているのは、この世で「健常者」と呼ばれる、我々に他ならない。

障害者は「役立たず」ではない。我々健常者によって「役立たず」にされているのである。

 

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