活動状況の報告


障害者差別の諸局面



◆太字 <出された意見> 以外は「障害者差別解放過程の理論化のために」津田英二 『生涯学習・社会教育学研究』No.20 1996年3月 p31- [障害者差別の諸局面]からの一部引用です。
*全文は http://www2.kobe-u.ac.jp/~zda/public_html/96ken.htmlに掲載されています。



A 行為

“「おれたちは二○になっても、三○になっても、だからいつも<あの子>と呼ばれ、子ども扱いにされるのだ」と健全者の無神経な発言がいかに障害者の自尊心を傷つけているかを指摘した。”2)

 障害者が一人の人格とはみなされず、自己決定能力を欠く者として見られ、その状態を子どもとして比喩されているのだとしたら、それは差別的状況以外のなにものでもない。障害者を子ども扱いするという行為の中には、障害者の行為能力の限界を予め規定してしまう強制力と、愛情を傾けなければならない対象として障害者を扱おうとする努力とが表現されている。こういった何気ない差別意識は、我々の心と体にしみついていて、視線や言葉づかいなどに端的に表れる。

 こうした視線や言葉づかいに現れる差別意識は、多分に無知や偏見と密接に関連している。

“これだけはわかってほしいんですけど、僕たちの病気は神経が過敏すぎるとか、性格が真面目すぎたり几帳面すぎたりするからなってしまうんであって、決して人が思うほど恐い病気じゃないし、人に危害を与えたりすることなんかないんですよ。よく残虐な殺人事件がおこるたびに犯人が精神障害者のようにマスコミが報道してますけど、……”3)

 この例にみるように、相手を無知や偏見ゆえに畏怖し、なるべく自分から遠ざけておこうとする行為は、差別の基本的な要因となっているように思われる。それならば、障害者についての知識を一般に普及させ、障害をもつ者ともたない者との日常的な接触の機会を増やせば、差別はなくなるのか。もちろんそう簡単にはいかない。なぜなら、無知や偏見が一方的に差別を生むというわけではないからである。そうではなくて、人々が差別の対象者を遠ざけようとし、実際に遠ざけることで無知や偏見が生じ、逆にその無知や偏見によって差別が強化されるという循環関係として捉えられなければならないからだ。

“人びとの「意識」の中からさえ、障害者は消されているのではないか。それを「無関心」とありきたりのことばでかたづけることはできない。「車椅子の障害者が電車に乗るとは知らなかった」というような、行政交渉の中で何気なく出てきた不用意なことばこそ、彼らから現実に足を奪う物理的な力を持つものだったからだ。”4)

 この場合に端的に表れているように、無関心は無関心として成り立っているのではない。障害者を日常生活の中から排除しようとする意識と無関心・無知・偏見とは相互に切り離し難いのである。しかも、障害者に対して無関心でいることを奨励する言説に出くわすことさえ珍しくない。

“各市町村の広報紙に政府から配られてきたコピーにはこうあった。「障害者をジロジロみてはいけません。」目をつぶって触れ合えというのだから、これは難しい。”5)

 障害者は、健常者の日常生活規範から逸脱した行為をとることが多い。例えば、自閉症をもつ人は公衆の中で大声を出したり発作的に手を叩く。肢体不自由の人にしても、障害に関わるちょっとした身体の動きが、公衆の目にはルールからの逸脱として映る。これらの逸脱は、公衆に憐愍や生理的嫌悪をひきおこしやすい。ところが、そのような公衆の感情の起伏とは裏腹に、健常者の日常生活規範は彼らに「儀礼的無関心」6)を要求する。すなわち、見知らぬ者どうしでは、相互に好奇心や特別な意図がないことを視線によってアピールするという作法が規範的に作用するために、健常者は障害者に対して無関心を装ったまま、憐愍や生理的嫌悪をひきずってその場を立ち去ることになる。

 このように、差別する意識→排除しようとする意識→無関心の奨励→無知・偏見→差別の強化、こういった循環を、差別現象の本質の一側面として考えることができるだろう。そしてこの循環こそが、思い込みを氷解させる人間的な直接的関係の形成を阻害しているのだ。



◆ここでは、(1)障害者に対して、自己決定能力を欠く子供同様の扱いをする健常者の心理と
(2)健常者の無知・偏見、無関心、排除の意識が引き起こす差別の構造について述べられている。


<出された意見>

  • 図書館で障害者に対して「こんな難しい本読めるのか。」って言う健常者がいた。わたしはどんな根拠があってそういうこと言うのか理解できない。(市川)
  • 健常者同士でも同じようなことあるから、それが差別だと考えるのは意識過剰じゃないかと思う。筑波大にいたら、そんなことでいちいち傷ついていたらやってけない(小堀)
  • 言葉に異常がみられたとき、知的にも障害があるんじゃないかって疑ってしまうという意見を友達から聞いた。(永和)
  • コミュニケーションとして障害者が受け取るなら差別だとは思わないけど、でもその言葉で傷ついていたら差別だと思う。(斎藤悠紀)
  • 健常者同士のルールをそのまま健常者と障害者の間のルールに当てはめちゃったらだめなんじゃないかと思う。そういうところで見逃してしまう差別があると思うから(森下)



B 障壁

 街にあるさまざまな障壁は、障害者を物理的に排除する合理的なシステムでもある。もちろん、障壁の中には経済的な事情などでやむを得ないものもある。けれども障害者の視点からは、そういった事情も単なる言い訳でしかない。

“エレベーターにしろスロープにしろ、それがあることで、他人に持ち上げてもらわなくてもホームまでたとり着くことができる。それは、施設というよりも、立っている地面の延長でしかないと彼らは考えている。それを拒むのは、わずか一0センチか一五センチそこらの「段差」と、その意味を読み取れない「施設」者側の目の高さだ。それは必然的に「死角」を生む。彼らはありとあらゆるところでそれに出会う。”7)

 街づくりにあたって設計者が障害者の目の高さに自らを置くことができないということは、無関心を装った健常者の自己中心性ということもできる。というよりも、健常者の自己中心性が障害者の無関心を、ひいては障害者の排除をひきおこすといったほうがよいかもしれない。
 さらにいえば、逆に障壁を口実として健常者の自己中心性を正当化しようとする場面すらありえるのだ。

“「車椅子三台なんですが」なかにいた女の人が急に変な顔になり、「車椅子、置くとこないからダメです」「エッ?」 − 耳を疑う。席は半分空いていて余裕は十分ある。「ダメだと言われていますので」と、店員らしい女性が言う。”8)

 障害者をめぐる差別的状況の多くは、健常者の自己中心性と密接に結び付いている。それは当然障害者に対する配慮の欠如や無知・無関心とも関係するが、意識的であれ無意識的であれ、それらは健常者の自己中心性を正当化する作用をもつ。街角の障壁というのは、これを如実に表しているのであり、障害者の目からは経済的理由による障壁でさえ、健常者の自己中心性の表れでしかないのだ。


◆ここでは、@バリアをつくってしまう健常者の自己中心性とAバリアを理由に健常者の自己中心性を正当化する行為が差別とどう結びついているのかということが書かれている。「健常者の自己中心性」とは何か、自分なりの解釈で説明して下さい。


<出された意見>

  • 健常者中心に世の中がまわっているということ(市川)
  • 健常者本位の社会の仕組み、健常者に都合の良い社会(橋本)
  • 遊園地の乗り物に障害者だからといって断られることとかも例としてあげられるんじゃないかな(市川)
  • 「障害者の方は危ないから・・」という理由で、施設の利用を断られることは特に日本でよくあることだけれど、その背景に管理者側の管理責任の意識が強いということがあげられる。アメリカなんかでは、施設を利用することは障害者でも自由にできるけれど、何かあったときの責任は自己でとって下さいという考え方がそこにはある。(松岡)



C 教育

 健常者の自己中心性は、教育という側面においても顕著に表れる。教育におけるそれは、健常者こそが人間としてのあるべき姿であり、障害者は健常者に見習わねばならない、とする点にある。教育者の善意にかかわらず、教育は障害者を健常者モデルにひきあげるという機能をもちやすい。

“<自立>ということの内容が「自分のことは自分でやれる」「他人に迷惑をかけない」ということであっては、彼の場合、最初から絶望的だ。これはつきつめると、自分のことは自分でやることのできる健全者の論理でしかない。”9)

 障害者が健常者をモデルとしてしか生きることができないと考えられてしまうなら、障害者が独自な生活スタイルを築くことも許されず、自分らしく生き生きと生きること自体否定される。障害者は健常者のもつスケールで裁断されることで、本来的な自由を大幅に制約されるわけである。さらに悪いことに、健常者中心主義に基づく教育は、障害者に劣等意識を内面化させ、差別されて当然だという感覚を植え付けるのだ。

“不可視の目標としてつねに「普通校の学生たち」を引きあいにだされ、「がんばりなさい、負けないように」と言われつづけたら、それは二級市民宣告を受けたも同然だった。四六時中、そう言われるものだから、さすがの私も「自分がダメなんだ」と、すっかり洗脳され、一級市民にものすごい「あこがれ」をもっていたのだ。”10)

 健常者の優越意識、障害者の劣等意識がいったん固定してしまえば、健常者と障害者との「交流」などといっても何の役にも立たない。それどころか否定的な関係を再生産するばかりである。すなわち、表面的な「交流」は、優劣という価値に基づいた固定的関係の転換を引き起こさないばかりか、逆に相互に優越性・劣等性を再確認する機能を果してしまうわけだ。

“養護学校にいたころ、年に一回くらい、普通学校の生徒たちが訪ねてくる「交流学習の日」というのがあった。障害をもつ子ともたない子が一年にたった一回、出会ったからって、何かが変わるってものでもなかろうに。私としては動物園のパンダになったようで不愉快だった。彼らはある種の優越感というか、自分たち障害のない者は障害をもつ人とはちがう存在、という前提のうえで自分のバランスをとろうとしている感じがした。”11)

 教育は以上のように、健常者の優越意識と障害者の劣等意識を再生産する機能をもつことができるわけである。むしろ、教育がこの再生産機能をもっているからこそ、障害者差別は存続することができるというべきかもしれない。また逆に、障害者差別が存続する限り、教育は差別を再生産する機能を多かれ少なかれもたざるをえないということもできるだろう。教育と障害者差別とは、かくも密接に関係しているのである。


◆教育の場面では、健常者モデルというかたちで健常者の自己中心性が現れる。そこで獲得した健常者の優越意識をもって、表面的な「交流」を行うことは優劣の意識を再確認し、差別を再生産する機能を果たす。ということがここで述べられている。


<出された意見>

  • 健常者と障害者の優劣意識ってのが、小さい頃から学校で教えられて、それが当たり前って思い込まされて気づかないままいるという現状は、差別を生み出している原因のなかでも大きいと思う。(森下)
  • 「交流」についてここに書かれてあることを読んで、自分もそうだなーって共感した。実現する会でも年に何回か交流会をするけれど、僕は上の例と同じように感じた。それは交流会だけじゃなくて、介助の場面でも共通することだけれど。(松岡)
  • 私もうまく言えないけれど、そう感じることある。(森下)
  • 新しく関わりだした障害者も参加したこの前の交流会のときに、新しい障害者の方と健常者とが何となく分断していたことが気になってた。私も何か話したいと思ってはいるんだけど、実際何を話せばよいか分からなくってという状況だった。そういうのって差別に含まれるのかもしれない(細田)



D 恋愛・結婚


 健常者の優越意識、障害者の劣等意識という非対象な固定的関係は、男女関係において顕著に現れる。まず障害者は、健常者にとって対等な男女関係を結ぶ対象の中から排除される。したがって健常者にとって障害者は性的対象ではないということになる。障害者は、男性・女性である前に障害者だというわけだ。“ある男のことを好きだ、と相談された私は、私もその男を好きなのだと言った。その女は、私の言葉を聞いて笑った。彼女にとって私は敵ではない。女でなくただの「障害者」だった。”12)

 このように男性であり女性であることを拒否されればされるほど、男性であり女性であることに憧憬をいだくのは、自然ななりゆきである。そしてその先にあるのが結婚という制度なのだ。障害者が結婚に強く憧れる傾向を示すのは、社会的な抑圧に基づくものということができるだろう。

 nさて、結婚という制度に近づけば、障害者はきわめて現実的な大きな圧力を受けることになる。というのは、制度としての結婚は、人に夫として、妻として、親としての役割を押し付けるからである。障害者にとっては実際にそういった役割を社会が期待した通りに担うことの難しい場合が多い。それゆえにこそ、社会は障害者の結婚を援助するよりも先に、障害者を結婚から遠ざけておこうとする。

“障害ゆえに結婚制度から締め出され、締め出されたゆえに、それに恋こがれ、恋こがれたゆえに、「彼自身を愛すること」以上に、「結婚すること」自体にエネルギーを注ぎ、……私は、女と男が出会い、愛しあうという根本的なことをなおざりにしていたのだ。”13)

 障害者は、男女間の、いや同性間でさえ、生き生きとした人間関係を形成することが難しくさせられている。恋愛・結婚といった、まさに生き生きとした関係が問われる状況において、この困難は露になる。こういった困難は個々のケースにおける関係障害というレベルでは語りえない。障害者から関係形成の契機を奪っている社会の構造全体を視野にいれなければならないわけである。


◆ここで述べられていることは、健常者の優劣意識は男女関係において、障害者を性的対象から排除するというかたちで現れるということだ。加えて、障害者から関係形成の契機を奪っている社会の構造全体にも問題を投げかけている。


<意見なし>



E 労働


 労働と差別との関係でまず思いつくのは、雇用機会の不均等である。政府主導の障害者雇用促進の動きは一定の成果をあげてきたということができよう。しかしそれでも、一般雇用されている障害者の数など微々たるものであるし、その数さえ景気変動に左右されるというのが現状である。

 いずれにしろ、現在の社会システムのもとでは、障害者全員を一般雇用し、全員に生活の資として十分なだけの賃金を保障するという理想は、残念ながら非現実的である。我々の社会では、能率の悪いことが排除の合理的な根拠となる。そこで善後の策として、保護就労を促進するという手段がある。けれども保護就労にしても、障害者差別から無関係ではありえない。というよりも保護就労にこそ障害者差別が表面化しているともいえる。保護就労といえども一般に市場価値を求められるから、そこでの労働は単調な換金率の悪い労働となりがちである。したがって低賃金に甘んじざるをえない上、形式的に市場からは離れた場での労働であるために疎外感もいっそう強くなる。生き生きとした生活の一要素としての労働をたのしむということは、現在の保護就労の場においては難しいのだ。

 問題は、一般就労か保護就労かというところにあるのではない。双方とも市場経済に巻き込まれざるをえない以上、障害者は排除される対象となる。今日の市場原理を根底から否定するのでない限り、むしろ問題は、労働が当人の生き生きとした生活の一要素となるか否かである。

 したがって我々は雇用機会の不均等に障害者差別を見るよりも、むしろそのような生き生きとした生活の一部としての労働を障害者に許さないというところに、障害者差別をみるべきなのだろう。

“近くの町に住む「多角形」のメンバー高橋くんも、最近、結婚した。そして障害者の奥さんとの間に子どもが生まれた。子どもをつれて散歩しているのを町会議員がみて、「ブラブラ遊んでる」と告げ口された。町はろくに調べもせず、なんとヘルパーの派遣日数を半分に削った。……個々の条件をいっさい無視して<すべての障害者>に自助努力を要求し、不可能な労働(職業的復帰)を重度者にまで強いている。障害者は、<かわいそう>にしているか<働く>か、そのどちらかしか許されていない。”14)

 恋愛・結婚においてもそうであったが、障害者は生き生きと生活することを構造的に奪われているのだといえる。労働市場から排除され、そうかといって労働に携わらなければ社会から排除される。窮余の策として保護就労の道が生み出されたが、いずれにしても労働は障害者にとって強制されるものであり、生活を豊かにするものではないのだ。またこのことと、障害者の文化活動の機会がきわめて限られていることとは、無関係であるはずがない。


◆障害者は市場経済から排除され、逆に労働に携わらなければ社会から排除される対象になり、いずれにしても障害者にとって労働は生活を豊かにするものではない、ということがここで述べられている。


<出された意見>

  • 僕は障害者と障害者の区別の中ではどっちつかずの立場にいるんだけど、今まで運動をやってきた周囲の障害者には、どうして健常者に近づこうとして働くのかと言われることがよくあった。僕はできることもあるし、できないこともあるけど、できることはやりたいと思ってるし、天職を見つけて生きていきたいという気持ちもある。それっていうのは、ある障害者にとってはCILかもしれないと思う。(橋本)
  • 今までだったら障害者は、健常者にしかできない仕事、障害者にもできるけど健常者の仕事っていう枠組みの中で、仕事をまかせられるという立場でしかなかったけれど、CILが一般社会の労働と違う点というのは、「障害者にしかできない」サービスを優先して行うことにある。仕事の順位づけを逆の発想でとらえ、変えようとする試みはおもしろいと思っている。CILは一般社会の労働の在り方に対して反する活動だといえる。(松岡)



F 介護関係


 介護者と被介護者との関係は、往々にして非対称的となる。すなわち、被介護者たる障害者は、生活していく上で介護者をどうしても必要としているのに対して、介護者はいつでもそれをやめることができるのである。だから、たとえ介護者が権力的な態度、差別的な態度をとったとしても、被介護者はそれに甘んじなければならないという状況に陥りやすい。このように、対等な人間関係をつくることが困難だからこそ、介護関係を、人間的な関係を極力排除した規範的な関係や金銭的な関係などに限定する技術も発達してきた15)

 介護者は、障害者のもっとも近くにいる存在だからこそ、障害者差別とも無関係ではありえない。むしろ身近であるがゆえに、障害者にとって最も深刻な差別的関係ともなりえるということができる。

“ボランティアで頭にくるといえば、みんなでお酒を飲んでいるときに、俺なんかがガバガバお酒を飲んでいる姿を見て、「あの人にあんなにお酒を飲ませていいの」なんて別の介護人に聞く奴ね。本人に聞けばいいことでしょう、こういうことって。こういう態度が一番腹立たしいんだよって、俺はしょっちゅう怒ってる。”16)

 これは障害者を意思決定の主体としてみなさないという、第1節で述べた行為に関連する差別として把握しえる。けれどもそればかりではない。例えばここに、二人の健常者と一人の障害者がいて、三人に関係する話題を健常者二人のみで交わし、無意識的であっても障害者がその会話に入り込む余地をつくらない場合、これは明らかに差別的状況といえる。介護者は、障害者にもっとも近い存在だからこそ、逆に障害者をもっとも排除し、最先鋒として差別を再生産することもあるのだ。とはいえ当然のことながら、その相克をのりこえて障害者との間にもっとも生き生きとした関係をつくりあげることもできるのも、介護者だということを忘れてはならない。障害者差別はそれほどに繊細な生きた現象なのだ。


◆障害者に最も身近な関係である介護者は、最先鋒として排除し差別を再生産している当事者にもなりえるし、それをのりこえ、障害者との間にもっとも生き生きとした関係をつくりあげることができる存在でもあるとここで述べられている。わたしたちにとって介助関係は一番身近な項目ですが、この文章を読んで何か気がついたこと、考えたことはありますか。


<出された意見>

  • 介助にはいりたての頃、障害者の言葉が聞き取れないとき、本人ではなく隣にいる健常者に聞いていた。今は本人に聞き直すけれど、、(室谷)
  • 文中に書いてある2人の健常者と1人の障害者の会話については、日常でよくある気がする。話のペースが違うと健常者のペースで話を進めてしまうことって。(榑松)
  • 気づかないうちに、やってることってあるよね。(細岡)





 <注>(原文についていた注です。参考にしてください。)

1) こういった障害者青年学級の問題については、津田英二「障害者青年学級の成立と展開」(小林繁・津田英二・兼松忠雄『学びのオルターナティヴ』れんが書房新社、近刊)を参照していただきたい。
2) 近田洋一『駅と車椅子』晩聲社、1985年、p.129
3) 夢村童「私たちは、精神「異常」者とは違います」障害者アートバンク編『障害者の日常術』晶文社、1991年、p.91
4) 『駅と車椅子』op.cit., p.67
5) ibid., p.226
6) ゴッフマン『集まりの構造』[Behavior in Public Places]丸木恵祐・本名信行訳、誠信書房、1980年、p.94
7) 『駅と車椅子』op.cit., p.30
8) ibid., p.26
9) ibid., p.99
10)安積遊歩『癒しのセクシートリップ』太郎次郎社、1993年、p.60
11)ibid., pp.89-90
12)『駅と車椅子』op.cit., p.164
13)『癒しのセクシートリップ』op.cit., p.184
14)『駅と車椅子』op.cit., pp.212-3
15)岡原正幸・石川准・好井裕明「障害者・介助者・オーディエンス」『解放社会学研究氈x1986年、pp.25-41
16)皹野英「私は、ボランティアがキライです」『障害者の日常術』op.cit., p.196


終わり          

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このページは2001年6月12日に初めて公開しました。