映画の山脈・黒澤明

追悼:1997年クリスマス・イブに黒澤明の映画に出演した事で世界的に有名な三船敏郎さんがなくなりました。謹んでご冥福をお祈りします。

現在、世界の映画界の頂点に君臨する黒澤明。

1998年9月6日、世界映画の頂点を極めた映画監督・黒澤明が死んだ。そのニュースは国内よりも海外で大きく取り上げられていたように思う。僕が我慢ならないのは、日本人が黒澤明について知らなさすぎるということだ。日本人が黒澤について認識しているのは、「日本人ではめずらしく世界から認められた映画監督」程度だと思う。はっきり言って、認識が低すぎる。戦後の世界映画界をリードし、映画を映像と音の総合芸術にまで高め、世界の映画のレベルを一気に引き上げたのが黒澤なのである。黒澤映画に流れる絶対的なヒューマニズム。彼の映画に何度涙し朝を迎えた事だろう。言葉に言い表せない大切なものを僕は彼の映画からたくさん学んだ。そして、何度も勇気づけられた。僕が自分の殻に閉じこもった時、いつも黒澤映画が僕の目を開かせてくれた。そんな映画を作った黒澤明は、本当に偉大だ。

  世界の映画をリードした日本映画

黒澤明の偉大さを示すのに、例えは事欠かない。

彼が監督した「羅生門」という映画のタイトルくらいは耳にした人も多いだろう。黒澤は、芥川龍之介の「薮の中」を大胆に取り込み、人間の業の深さと救いの道を提示してみせた。この映画は1949年のベネチア映画祭で、見事グランプリに輝いた。それまで日本人は、日本映画は先進国に比べ劣っていると信じて疑わなかった。受賞のニュースは晴天の霹靂だった。当の黒澤にしても、びっくりだった。第一、彼は出品された事自体知らなかった。日本映画を正当に評価したのは、日本ではなく、当時の映画先進国、イタリアだった。それからの10年間、世界の映画をリードしたのは日本映画だった。小津安二郎、黒澤明、溝口健二らが、当たり前のように、映画史に残る傑作を発表し続けた。

それにしても、この「羅生門」の衝撃はすごかった。たぶん、今でも、世界の映画人が投票すれば「羅生門」が1位になると思う。アメリカのリット監督は、シナリオをそっくり翻案して「暴行」を作ったが、出来は「羅生門」に遠く及ばず、物笑いの種になってしまった。また、戦後の三大巨匠といえば、日本の黒澤明、イタリアのフェリーニ、スウェーデンのベルイマンだが、彼らの代表作、フェリーニの「道」、ベルイマンの「処女の泉」は共に「羅生門」の影響を受けていると、監督自身が告白している。

「羅生門」はこの年の米アカデミー賞外国語映画賞も受賞した。そして30年後、「羅生門」は、ベネチア映画祭50周年記念として、過去の50本のグランプリ作品の中から、グランプリ中のグランプリ!にも選ばれている。

 アカデミー賞特別名誉賞

黒澤は「羅生門」だけの一発屋では終わらなかった。その後も、「生きる」、「七人の侍」、「用心棒」、「椿三十郎」、「赤ひげ」、「影武者」、「乱」、「夢」など、ためいきが出るばかりの傑作を世に送り出し、ベネチア、カンヌ、モスクワ、ロンドン、アカデミー賞と、各国の映画祭を総なめにした。

また、ユーゴスラビアのチトー大統領から、「ユーゴスラビア国旗勲章」が、フランスからは芸術最高位の「コマンドール勲章」が授与されている。

しかし、極めつけは1990年のアカデミー賞で特別名誉賞を受賞したことだろう。これは本当に特別な賞で、過去に受賞した監督はチャップリン1人しかいない。コッポラ、ルーカス、スピルバーグに代表されるハリウッドの映画人達がこぞって黒澤を師と仰いでいるのは有名だ。そして、特別名誉賞の受賞は、改めて世界のクロサワを知らしめた。ちなみに、この後、この賞をもらった監督が1人だけいる。イタリアのフェリーニだ。

 あれは面白かったよ

黒澤の作品はよく西部劇に翻案される。それは黒澤自身が、西部劇の巨匠フォード監督の影響を受けているからだ。だから、彼は喜んで、ハリウッドの映画人達に自分の手法を教授した。しかし、「用心棒」をまねした「荒野の用心棒」には激怒し訴訟さわぎになった。

ルーカスの「スターウォーズ」が黒澤の「隠し砦の三悪人」をパクりにパクったものというのも有名。出来は「隠し砦の三悪人」には及ばないが。ちょうど、「スターウォーズ」が公開された頃、黒澤は所用でアメリカに渡っていた。ハリウッド人達は、「クロサワはルーカスを訴えに来た」と噂し、ルーカスは慌てて黒澤に会いに行った。真っ青になってわびるルーカスに、黒澤はニコニコと「あれは面白かったよ」といったという。ルーカスはすっかり黒澤に心服し、後に大きな恩返しをする事になる。

  第二の処女作

1970年代、日本映画が衰退するにつれ、黒澤は映画が作りづらくなっていった。黒澤映画は金がかかるのだ。「四騎の会」を小林正樹、市川昆、木下恵介らと旗揚げし、「どですかでん」を作るが、興行的には失敗だった。映画会社は黒澤を見切り、黒澤は追いつめられていった。そして、彼は自殺未遂を起こす。

そんな黒澤に救いの手を差し伸べたのはソ連だった。彼はソ連に招かれ、シベリアの大自然を歌い上げた作品「デルスウザーラ」(1975)を作った。この作品はモスクワ映画祭でグランプリを受賞し、ヨーロッパで大いに稼いだ。以後黒澤は外国資本を視野に入れるようになる。

「影武者」(1980)は黒澤の再生を強く印象づける素晴らしい傑作だ。そして、この企画は20世紀フォックスが、150万ドルで海外における権利を東宝から買った事で可能になった。この仲介をしたのが、コッポラとルーカスだった。ルーカスは「スターウォーズ」での恩を忘れてはいなかった。2人は黒澤の苦境を聞いて驚き、悲しんだ。彼らは本当に黒澤を尊敬していたらしい。そして、黒澤は見事に彼らの期待に応え、「影武者」はカンヌでグランプリを受賞した。

「乱」(1985)は黒澤自らライフワークと呼ぶ大作だった。シナリオの完成には10年を要し、出演者1万2000名!、制作費は1200万ドルかかると予想されていた。今度はフランスのグリニッチ社が資金提供を申し出た。計画は順調だったが、フランスが自国通貨の海外持ち出しを禁止するという事件がおこった。日本側は大慌てだったが、さすがは芸術の国フランス、黒澤映画に使われるのなら、と特別処置をとってくれた。そして、後に「乱」はアカデミー賞が選ぶ、1980年代最高の傑作に選ばれた。

「夢」は、黒澤の美しい第二の処女作といえるだろう。今回はワーナーブラザーズ社が資金を提供した。仲介したのはコッポラ、ルーカス、スピルバーグだった。「夢」は1990年のカンヌ映画祭で、全映画人の羨望の的であるオープニング上映作品に選ばれた。終了タイトルが流れ始めると、観客は総立ちで、10分間拍手が鳴り止まなかったという。

  巨星落つ

このように偉大な黒澤が日本に生まれてくれた事に、私は本当に感謝している。外国に行って「日本人だ」というと、まず返ってくる反応は「クロサワ・イズ・グッド!」である。その時、あなたが黒澤映画を知らなかったら!そう、今からでも遅くない。少しでも、彼の作品に触れて欲しい。虜になるに違いないから。

小津も、溝口も、三船も、そしてフェリーニもすでにこの世の人ではない。そしてついに巨星・黒澤明までが落ちた。20世紀を代表する映画監督はほとんどこの世にはいない。さみしいかぎりである。

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